**なお、この塚は後に鴨川の洪水によって流されてしまったのだが、1611年にたまたま工事の最中に発見され、それに関わっていた一人の身内が偶然にも秀次の家臣だった縁から、江戸幕府から許可をもらい改めて秀次と一行を弔うお堂「瑞泉寺」と塚が建てられ、ようやく駒姫は手厚い供養を受けることになった<ref group="注">1941年には松下幸之助の財団法人によって秀次達の墓が整備され、秀次一族と家臣の墓として49基の五輪塔と、地蔵堂に祀るための50人の小さな像が建立されている。</ref>。 | **なお、この塚は後に鴨川の洪水によって流されてしまったのだが、1611年にたまたま工事の最中に発見され、それに関わっていた一人の身内が偶然にも秀次の家臣だった縁から、江戸幕府から許可をもらい改めて秀次と一行を弔うお堂「瑞泉寺」と塚が建てられ、ようやく駒姫は手厚い供養を受けることになった<ref group="注">1941年には松下幸之助の財団法人によって秀次達の墓が整備され、秀次一族と家臣の墓として49基の五輪塔と、地蔵堂に祀るための50人の小さな像が建立されている。</ref>。 |