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| == 真名:ヴラド三世 == | | == 真名:ヴラド三世 == |
− | ヴラド三世。串刺し公。ヴラド・ツェペシュ。<br>ルーマニアに名高い英雄。ワラキアの独立をトルコの侵攻から保った、キリスト教世界の盾とまで言われる高潔な武人。国土を荒廃させた元凶である貴族を粛清、敵対するトルコ軍2万を串刺し刑とする。だがその厳罰主義ゆえに配下に背かれ、貴族により暗殺される。享年46歳。 | + | :ヴラド三世。串刺し公。ヴラド・ツェペシュ。<br>ルーマニアに名高い英雄。ワラキアの独立をトルコの侵攻から保った、キリスト教世界の盾とまで言われる高潔な武人。国土を荒廃させた元凶である貴族を粛清、敵対するトルコ軍2万を串刺し刑とする。だがその厳罰主義ゆえに配下に背かれ、貴族により暗殺される。享年46歳。 |
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− | ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」のモデルとされる人物で、現代における「怪物」の代名詞と言えるまでになった、創作が現実を捻じ曲げてしまった最大のサンプルケースと言えるもの。<br>ただし、その全てが創作者の傲慢とは言い切れない。<br>ルーマニア人にとっては英雄だが、敵対するトルコ側からは悪魔の如く嫌われた。 | + | :ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」のモデルとされる人物で、現代における「怪物」の代名詞と言えるまでになった、創作が現実を捻じ曲げてしまった最大のサンプルケースと言えるもの。<br>ただし、その全てが創作者の傲慢とは言い切れない。<br>ルーマニア人にとっては英雄だが、敵対するトルコ側からは悪魔の如く嫌われた。 |
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− | 1462年、トルコの侵略に対する防衛戦において、ヴラド三世最大の串刺しが行われる。<br>トルコ軍15万に対し、ルーマニア軍1万。ヴラド三世は徹底した焦土作戦とゲリラ戦を指示。民衆をカルパチア山脈へと逃がし、首都ブカレストを空にしてトルコ軍を迎え撃つ。<br>その際、ブカレストの周囲に築かれたのが、トルコ兵の2万を越える串刺しの野原である。<br>長さ3キロ、幅1キロに及ぶこの串刺しの野原の異様さと、死体から漂う異臭は、勇猛であったはずのトルコ軍の士気を完全に挫く。「征服者」と呼ばれたメフメト二世すら、<br>'''「私はどんな人間も恐ろしくないが、悪魔だけは別だ」'''<br>と残し、軍を引き上げたという。 | + | :1462年、トルコの侵略に対する防衛戦において、ヴラド三世最大の串刺しが行われる。<br>トルコ軍15万に対し、ルーマニア軍1万。ヴラド三世は徹底した焦土作戦とゲリラ戦を指示。民衆をカルパチア山脈へと逃がし、首都ブカレストを空にしてトルコ軍を迎え撃つ。<br>その際、ブカレストの周囲に築かれたのが、トルコ兵の2万を越える串刺しの野原である。<br>長さ3キロ、幅1キロに及ぶこの串刺しの野原の異様さと、死体から漂う異臭は、勇猛であったはずのトルコ軍の士気を完全に挫く。「征服者」と呼ばれたメフメト二世すら、<br>'''「私はどんな人間も恐ろしくないが、悪魔だけは別だ」'''<br>と残し、軍を引き上げたという。 |
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− | 残忍にして合理的。目的のためには手段を選ばない。普通の人間以上の視野の広さを持った天才的な武人。<br>だがしかし、理解者には恵まれなかった。 | + | :残忍にして合理的。目的のためには手段を選ばない。普通の人間以上の視野の広さを持った天才的な武人。<br>だがしかし、理解者には恵まれなかった。 |
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− | もともと、串刺し刑自体は当時において珍しい刑罰ではなかった。だがそれは、対象が一般庶民に限られていた。<br>ヴラド三世がルーマニア公に即位した際、堕落と腐敗をほしいままにしていた貴族のあまりの姿に彼は憤慨し、大粛清を行う。その際、本来貴族には適用されなかったはずの串刺し刑を、貴族にも容赦なく用いた。これは、貴族と庶民が厳しく分かれていた当時のワラキアの民に、相当のショックを与えたと言われる。<br>これ以後、串刺し刑は彼の十八番となる。法王庁に届け出のあった記録によれば、彼の生涯における串刺し刑の刑死者は、のべ10万人に達するという。<br>ちなみにこの数字に、ワラキア統治における刑罰とは関係のない、戦争における敵国人の串刺し刑は、含まれていない。 | + | :もともと、串刺し刑自体は当時において珍しい刑罰ではなかった。だがそれは、対象が一般庶民に限られていた。<br>ヴラド三世がルーマニア公に即位した際、堕落と腐敗をほしいままにしていた貴族のあまりの姿に彼は憤慨し、大粛清を行う。その際、本来貴族には適用されなかったはずの串刺し刑を、貴族にも容赦なく用いた。これは、貴族と庶民が厳しく分かれていた当時のワラキアの民に、相当のショックを与えたと言われる。<br>これ以後、串刺し刑は彼の十八番となる。法王庁に届け出のあった記録によれば、彼の生涯における串刺し刑の刑死者は、のべ10万人に達するという。<br>ちなみにこの数字に、ワラキア統治における刑罰とは関係のない、戦争における敵国人の串刺し刑は、含まれていない。 |
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