差分
補足など追加
== 真名:森長可 ==
== 真名:森長可 ==
: もりながよし。日本の戦国時代の武将で織田信長の尾張統一前からの功臣であった森可成の次男で、信長の寵童として有名な蘭丸の兄。<br>父譲りの槍の名手で、父の死後は森家の当主となり、信長の息子である織田信忠旗下で多くの武功を立て、『鬼武蔵』の異名を取った猛将。<br>信長没後も羽柴秀吉に属して美濃を席巻したが、小牧長久手の戦いの際に銃弾を受けて若くして命を落とした。
: もりながよし。日本の戦国時代の武将で織田信長の尾張統一前からの功臣であった森可成の次男で、信長の寵童として有名な蘭丸の兄。<br>父譲りの槍の名手で、父の死後は森家の当主となり、信長の息子である織田信忠旗下で多くの武功を立て、『鬼武蔵』の異名を取った猛将。<br>信長没後も羽柴秀吉に属して東美濃を席巻したが、小牧長久手の戦いの際に銃弾を受けて若くして命を落とした。
: 生前から非常に旺盛な闘争心の持ち主で、初陣で自ら27の首級を挙げたのを皮切りに前線での戦いを好み、高遠城の戦いでは腰から下が満遍なく血塗れになるまで敵兵を殺し回ったとされる。<br>一方で平時でも異常なまでに気性の激しい人物で、気に入らぬことがあればすぐに手討ちに及んだり、織田軍の関所であっても自身の通りが通らない場合は放火してでも押し通おりと脅すなど、とにかく暴力的な逸話が多く残されている。
: 生前から非常に旺盛な闘争心の持ち主で、初陣で自ら27の首級を挙げたのを皮切りに前線での戦いを好み、高遠城の戦いでは腰から下が満遍なく血塗れになるまで敵兵を殺し回ったとされる。<br>一方で平時でも異常なまでに気性の激しい人物で、気に入らぬことがあればすぐに手討ちに及んだり、織田軍の関所であっても自身の通りが通らない場合は放火してでも押し通おりと脅すなど、とにかく暴力的な逸話が多く残されている。
**そのため[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の配下として参戦した小牧・長久手の戦いで討ち死にした際には、その死を味方からも喜ばれたという逸話が伝わっている。真偽は不明ではあるものの、そんな話が生まれるほどの問題児だったことは間違いないだろう。なおあくまで逸話であり、史実では討ち死にした際に敵軍に首を渡さぬように、配下が敵に成りすまして首を取り名乗りを上げながら森陣営に持ち帰っている。
**そのため[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の配下として参戦した小牧・長久手の戦いで討ち死にした際には、その死を味方からも喜ばれたという逸話が伝わっている。真偽は不明ではあるものの、そんな話が生まれるほどの問題児だったことは間違いないだろう。なおあくまで逸話であり、史実では討ち死にした際に敵軍に首を渡さぬように、配下が敵に成りすまして首を取り名乗りを上げながら森陣営に持ち帰っている。
**逸話の中には、敵兵はおろか、自分の道を遮った門番や撤退の際にとった人質、果ては神獣とされた蛇なども殺したとある。また、劇中ではシューティングゲーム感覚で殺戮行為をしていたが、それも実際に武田攻めの際にやっていたという逸話が残っている。
**逸話の中には、敵兵はおろか、自分の道を遮った門番や撤退の際にとった人質、果ては神獣とされた蛇なども殺したとある。また、劇中ではシューティングゲーム感覚で殺戮行為をしていたが、それも実際に武田攻めの際にやっていたという逸話が残っている。
**もっとも、人質を処刑したのは人質を差し出した武将が自分を裏切った為であり、戦国時代なら普通の行動だと言える。また、撤退に協力した武将には深く感謝して脇差しを送るなど、決して粗暴なだけの人物ではない。武田家の領民の一部が自分たちの村を自ら焼き討ち、織田軍に降った時は珍しく引いたとも。
**もっとも、人質を処刑したのは人質を差し出した武将が裏切った為であり、戦国時代なら普通の行動だと言える。また、撤退に協力した武将には深く感謝して脇差しを送るなど、決してただの粗暴なだけの人物ではない。武田家の領民の一部が自分たちの村を自ら焼き討ち、織田軍に降った時は珍しく引いたとも。
**ここまで無茶苦茶やっておいて、信長から下された懲罰は口頭か書状での軽い注意ばかりで、まともな罰を受けたことは一度も無かった。これは森家自体が代々続く忠臣の家系で織田家のために殉じていった者が非常に多く、長可も例に漏れず織田家に極めて忠実であったため。そのせいか、総じて家臣には甘い信長も長可には特に甘かった。
**ここまで無茶苦茶やっておいて、信長から下された懲罰は口頭か書状での軽い注意ばかりで、まともな罰を受けたことは一度も無かった。これは森家は父・可成が織田家の為に奮戦し、[[レオニダス一世]]よろしく志賀の陣で討死した事や弟・蘭丸が寵愛を受けた事や、長可自身の才覚もあるだろうが信長は長可に甘かった。
*茶の湯と書道に通じていた他、領地経営には熱心に取り組んでおり、所領であった金山は商業で大いに賑わったという。
*血生臭い逸話には江戸時代頃の創作がいくつかあり、長可が信長の命令通りに長可を止めた橋守を斬殺して押し通った事を知った際、長可に武蔵坊弁慶にちなんで武蔵守を名乗れと言った逸話は有名。
**茶の湯に関しては相当入れ込んでいたようで、ある茶器の購入資金を工面するため秀吉に多額の借金をしたとの逸話まである。
**信長存命時には鬼勝蔵と呼ばれていたらしく、この逸話なども「長可ならやりかねない」という風評がきっかけで生まれたのだろう。
*領地経営には熱心に取り組んでおり、所領の兼山城は賑い領民に好かれていた。
**湯と書道に通じており、特に茶の湯に関しては相当入れ込んでいたようで、ある茶器の購入資金を工面するため秀吉に多額の借金をしたとの逸話まである。
*宝具の元になった槍・人間無骨は二代目和泉守兼定(通称「之定」)作の十文字槍。その名は「この槍の前では人間など骨のない肉塊同然」という意味を持ち、ある時長可が討ち取った敵の首級を槍の穂先にかけて突き立てたところ、首が十文字を突き抜け石突(槍の刃を上にした時、柄の最も下端となる部分)まで達したという。刃が現存しており個人蔵。片面に「人間」、裏面に「無骨」と彫られている。
*宝具の元になった槍・人間無骨は二代目和泉守兼定(通称「之定」)作の十文字槍。その名は「この槍の前では人間など骨のない肉塊同然」という意味を持ち、ある時長可が討ち取った敵の首級を槍の穂先にかけて突き立てたところ、首が十文字を突き抜け石突(槍の刃を上にした時、柄の最も下端となる部分)まで達したという。刃が現存しており個人蔵。片面に「人間」、裏面に「無骨」と彫られている。
*生前愛馬としていた馬が宝具として設定されているのは赤兎馬が有名な[[呂布奉先]]が存在する。何故かそちらも赤兎馬を宝具として使えるライダークラスで召喚された場合、馬と合体するらしい。
*生前愛馬としていた馬が宝具として設定されているのは赤兎馬が有名な[[呂布奉先]]が存在する。何故かそちらも赤兎馬を宝具として使えるライダークラスで召喚された場合、馬と合体するらしい。
== 話題まとめ ==
== 話題まとめ ==
;戦国DQN四天王
;戦国DQN四天王
:『帝都聖杯奇譚』の単行本口絵で触れらていた呼称。<br/>元ネタは、2ちゃんねるの「戦国ちょっといい話」「戦国ちょっと悪い話」スレであり、その名の通り戦国武将の良い話や悪い話をトリビア的に集めたスレにおいて、一般的に見て異常と言えるエピソードが数多く報告された四人をまとめた俗称である。<br/>メンバーは、<br/>・文化に精通した著名な戦国武将ながら、勢いで文化財を破壊したり晩年に奇矯なエピソードが大量に記録されている「伊達政宗」<br/>・超一流の文化人として知られているが、妻の細川ガラシャの事になると態度が激変するのに加え、「部下を三十六人手打ちにしたから刀の銘に歌仙と名付ける」という引くようなセンスの持ち主の「細川忠興」<br/>・薩摩を治めた優秀な君主であるが、その方針が「鬼島津」と恐れられた父とは似ても似つかない程陰険で、妻に対する仕打ちがドン引きレベルの「島津忠恒」<br/>これに森長可を加えた四人である。<br/>余談であるが、該当スレでは「うつけ」として奇矯なエピソードが知られている[[織田信長]]は最近の研究では比較的まともな人間だったことが知られているため比較対象にされず、逆に[[豊臣秀吉]]は晩年に顕著になるが信長の家臣時代からたまに見られた残酷な苛烈さから「ラスボス」と畏怖されている。
:『帝都聖杯奇譚』の単行本口絵で触れらていた呼称。<br/>元ネタは、2ちゃんねるの「戦国ちょっといい話」「戦国ちょっと悪い話」スレであり、その名の通り戦国武将の良い話や悪い話をトリビア的に集めたスレにおいて、一般的に見て異常と言えるエピソードが数多く報告された四人をまとめた俗称である。<br/>メンバーは、<br/>・文化に精通した著名な戦国武将ながら、勢いで文化財を破壊したり生涯に渡って奇矯なエピソードが大量に記録されている「伊達政宗」<br/>・超一流の文化人として知られているが、妻の細川玉(洗礼名ガラシャ)の事になると態度が激変するのに加え、「三十六人手打ちにしたから三十六歌仙にあやかって刀の銘に歌仙と名付ける」という引くようなヤンデレ「細川忠興」<br/>・薩摩を治めた優秀な君主であるが、その方針が「鬼島津」と恐れられた父とは似ても似つかない程陰険で、妻に対する仕打ちがドン引きレベルの「島津忠恒」<br/>これに森長可を加えた四人である。<br/>余談であるが、該当スレでは「うつけ」として奇矯な逸話が知られている[[織田信長]]は最近の研究では比較的まともな人間だったことが知られているため比較対象にされず、逆に[[豊臣秀吉]]は晩年に顕著になるが信長の家臣時代からたまに見られた残酷な苛烈さから「ラスボス」と畏怖されている。
== 脚注 ==
== 脚注 ==