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== シロウ・コトミネ ==
 
== シロウ・コトミネ ==
* 真名:天草四郎時貞
   
* 誕生日:不明 / 血液型:不明
 
* 誕生日:不明 / 血液型:不明
 
* 身長:169cm / 体重:59kg
 
* 身長:169cm / 体重:59kg
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* 好きなもの:人類 / 苦手なもの:暴走する人間
 
* 好きなもの:人類 / 苦手なもの:暴走する人間
 
* 天敵:ジャンヌ・ダルク、ジーク
 
* 天敵:ジャンヌ・ダルク、ジーク
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* 真名:天草四郎時貞
    
[[聖堂教会]]から派遣されてきた神父で、[[セミラミス|赤のアサシン]]のマスター。[[聖杯戦争|聖杯大戦]]の監督役も兼任する。
 
[[聖堂教会]]から派遣されてきた神父で、[[セミラミス|赤のアサシン]]のマスター。[[聖杯戦争|聖杯大戦]]の監督役も兼任する。
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== メモ ==
 
== メモ ==
 
*日本人の彼が白髪となっているのは強引に受肉した際の代償、褐色の肌となっているのはセミラミスの触媒と「虚栄の空中庭園」の材料の収集に二十年近く中東に潜伏する必要があったため。しかしメタ的には間違いなく[[エミヤ|あっちのシロウ]]へのミスリードを誘うためだろう。
 
*日本人の彼が白髪となっているのは強引に受肉した際の代償、褐色の肌となっているのはセミラミスの触媒と「虚栄の空中庭園」の材料の収集に二十年近く中東に潜伏する必要があったため。しかしメタ的には間違いなく[[エミヤ|あっちのシロウ]]へのミスリードを誘うためだろう。
*「年若い日本人少年の姿をしたシロウという名前のカソリック教徒」「挿絵によっては大きな飾り襟に見えるフードが付いた赤いマント」「殉教を意味する赤い典礼色のストラ」等、彼の正体を知るヒントは1巻の時点で散りばめられていたが、それ以上にフルネームと容姿のインパクトが強い。
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*「年若い日本人少年の姿をしたシロウという名前のカトリック教徒」「挿絵によっては大きな飾り襟に見えるフードが付いた赤いマント」「殉教を意味する赤い典礼色のストラ」等、彼の正体を知るヒントは1巻の時点で散りばめられていたが、それ以上にフルネームと容姿のインパクトが強い。
 
**カトリックの司祭が肩に掛けるストラは色によって意味が違い、シロウが身に着けた赤い典礼色のストラは主が受難を受けた時に流した血の色、殉教者の血の色、炎の色を象徴している。
 
**カトリックの司祭が肩に掛けるストラは色によって意味が違い、シロウが身に着けた赤い典礼色のストラは主が受難を受けた時に流した血の色、殉教者の血の色、炎の色を象徴している。
 
**赤い陣羽織(赤いマント)と大ぶりの飾り襟は天草四郎の肖像画などのモチーフとして頻繁に採用されるもの。(エリマキトカゲのように首の周囲を囲む蛇腹状の襞襟もモチーフとしてよく使用されるが、81年の映画「魔界転生」や奈須きのこがFateの原点として挙げる石川賢版の「魔界転生」では大ぶりの飾り襟が採用されている)
 
**赤い陣羽織(赤いマント)と大ぶりの飾り襟は天草四郎の肖像画などのモチーフとして頻繁に採用されるもの。(エリマキトカゲのように首の周囲を囲む蛇腹状の襞襟もモチーフとしてよく使用されるが、81年の映画「魔界転生」や奈須きのこがFateの原点として挙げる石川賢版の「魔界転生」では大ぶりの飾り襟が採用されている)
*外套や陣羽織の胸元に使用されている房の付いた飾り紐が読者の目を惹くが、これは「<RUBY><RB>総角</RB><RT>あげまき</RT></RUBY>結び」と呼ばれる装飾結びの一つ。<br>ご存知[[エミヤ|アーチャー]]の外套にも使われている総角結びだが、房の付いた総角結びは調度品や武具、勿論'''陣羽織の装飾としてもポピュラーな物'''。シロウの生まれた時代や出自から考えても衣服の装飾に総角結びは馴染み深いと考えるのが妥当だろう。
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*外套や陣羽織の胸元に使用されている房の付いた飾り紐が読者の目を惹くが、これは「<RUBY><RB>総角</RB><RT>あげまき</RT></RUBY>結び」と呼ばれる装飾結びの一つ。<br>ご存知[[エミヤ|アーチャー]]の外套にも使われている総角結びだが、房の付いた総角結びは調度品や武具、勿論'''陣羽織の装飾としてもポピュラーな物'''。シロウの生まれた時代や出自から考えても衣服の装飾に総角結びが使用されるのは妥当だろう。
*今でこそ美少年として扱われる天草四郎だが、これは島原の乱から70年以上経過した享保年間に流通した近世軍記「田丸具房物」の影響が強く、実際のところ島原の乱の収束前後数年以内に成立した史料で四郎の容貌に言及されたものは少ない。<br>その少ない史料のうち『島原記録』に四郎が疱瘡を患うという記録があり、『高来群一揆の記』にも四郎の首実検において「頬の疱瘡の痕」が用いられたと記述されている。
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*今でこそ美少年として扱われる天草四郎だが、これは島原の乱から70年以上経過した享保年間に流通した近世軍記「田丸具房物」の影響が強く、実際のところ島原の乱の収束前後数年以内に成立した史料で四郎の容貌に言及されたものは少ない。
 
**容姿どころか島原の乱に参加する前の経歴や出自についても謎が多く、様々な異説が存在する。特に極端なものは『大阪の陣で死なずに落ち延びた豊臣秀頼の息子』つまり[[豊臣秀吉]]の孫であるという説だろう。秀頼生存説自体が伝説の域を出ないため信憑性はお察しだが、後述の通り乱に豊臣家の残党が多数加わっていたのは事実であるため、このような説が生まれたものと思われる。
 
**容姿どころか島原の乱に参加する前の経歴や出自についても謎が多く、様々な異説が存在する。特に極端なものは『大阪の陣で死なずに落ち延びた豊臣秀頼の息子』つまり[[豊臣秀吉]]の孫であるという説だろう。秀頼生存説自体が伝説の域を出ないため信憑性はお察しだが、後述の通り乱に豊臣家の残党が多数加わっていたのは事実であるため、このような説が生まれたものと思われる。
 
*Fate二次創作界隈では昔からあるIFネタで「もし[[衛宮士郎]]が冬木の大火災で[[衛宮切嗣]]ではなく[[言峰綺礼]]に拾われ養子になっていたら」という所謂「'''言峰士郎'''」ネタがそれなりの規模で存在した。並行世界という設定もありこの二次創作ネタの存在も読者から彼の正体を眩ます要因になったかもしれない。
 
*Fate二次創作界隈では昔からあるIFネタで「もし[[衛宮士郎]]が冬木の大火災で[[衛宮切嗣]]ではなく[[言峰綺礼]]に拾われ養子になっていたら」という所謂「'''言峰士郎'''」ネタがそれなりの規模で存在した。並行世界という設定もありこの二次創作ネタの存在も読者から彼の正体を眩ます要因になったかもしれない。
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== 話題まとめ ==
 
== 話題まとめ ==
 
;「ミスリード」の真偽
 
;「ミスリード」の真偽
:[[エミヤ|あっちのシロウ]]へのミスリードを誘う造形で登場したシロウだが、幾つかのソース不明の言説で『シロウ・コトミネ=平行世界の衛宮士郎という誤った推測にファンを誘導するため、奈須きのこや東出祐一郎が衛宮士郎・アーチャーファンの期待を煽る恣意的な発言を行った』と主張される事がある。<br>だが実際の所、Apocryphaの第一報が発表された2012年7月~シロウの正体が発覚する2巻が刊行された2013年8月までに発表された関係者の発言で、[[エミヤ|あっちのシロウ]]とシロウ・コトミネの繋がりを直裁的に示す物があったとは言い難い。
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:[[エミヤ|あっちのシロウ]]へのミスリードを誘う造形で登場したシロウだが、幾つかのソース不明の言説で『シロウ・コトミネ=平行世界の衛宮士郎という誤った推測にファンを誘導するため、奈須きのこや東出祐一郎が衛宮士郎・アーチャーファンの期待を煽る恣意的な発言を行った』と主張される事があり、2巻発売直後は炎上の様相を見せる程であった。<br>だが実際の所、Apocryphaの第一報が発表された2012年7月~シロウの正体が発覚する2巻が刊行された2013年8月までに発表された関係者の発言で、[[エミヤ|あっちのシロウ]]とシロウ・コトミネの繋がりを直裁的に示す物があったとは言い難い。
 
:*(例)『「正体はアイツだよね」と察してもらえるだろう』『いつもの赤マント(いつもの赤いの)が出張する』――2011年発行の'''Fate/EXTRAビジュアルファンブックで[[無銘]]に寄せられた奈須きのこの発言'''『「真名はないけれど、アーチャーの正体はアイツだよね」と察してもらえるだろうと。』が'''取り違えられた'''もの。後者も竹箒日記2010/7/23でEXTRAの無銘に宛てられた『いつもの赤マント』発言が取り違えられている。
 
:*(例)『「正体はアイツだよね」と察してもらえるだろう』『いつもの赤マント(いつもの赤いの)が出張する』――2011年発行の'''Fate/EXTRAビジュアルファンブックで[[無銘]]に寄せられた奈須きのこの発言'''『「真名はないけれど、アーチャーの正体はアイツだよね」と察してもらえるだろうと。』が'''取り違えられた'''もの。後者も竹箒日記2010/7/23でEXTRAの無銘に宛てられた『いつもの赤マント』発言が取り違えられている。
 
:*『星を追う少年』――2012年12月10日の[[ひびちからじお]]第63回で公開された東出祐一郎書き下ろし音声広告の『少年は変わる。届かぬ星に手を伸ばすために。』が誤解釈されたもの。このフレーズはシロウではなく、Apocryphaの主人公[[ジーク]]に宛てられている。
 
:*『星を追う少年』――2012年12月10日の[[ひびちからじお]]第63回で公開された東出祐一郎書き下ろし音声広告の『少年は変わる。届かぬ星に手を伸ばすために。』が誤解釈されたもの。このフレーズはシロウではなく、Apocryphaの主人公[[ジーク]]に宛てられている。
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   東出「色黒の人ですね(笑) 。プレビュー版にも名前だけは出てきます。」
 
   東出「色黒の人ですね(笑) 。プレビュー版にも名前だけは出てきます。」
 
:という非常に簡素な物。取材者も東出氏も'''「対談相手はシロウの容姿を”どこで見た誰に似ている”と思ったのか」に言及していない'''事に注目されたい。…要するに「突っ込まれたら困るからはぐらかした」のだろうか。
 
:という非常に簡素な物。取材者も東出氏も'''「対談相手はシロウの容姿を”どこで見た誰に似ている”と思ったのか」に言及していない'''事に注目されたい。…要するに「突っ込まれたら困るからはぐらかした」のだろうか。
:実際、「TYPE-MOONエースVol.8」でシロウの名前と聖堂教会の神父という前情報が公開された'''第1巻発売の2週間前には『シロウはシロウでも漢字違いの別人ではないか』という予想とともに天草四郎の名前が挙がる'''ほど([http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/otaku/995/1355157046/ リンク先247-248])天草四郎の名は”シロウ”繋がりで連想しやすい人物名だった。<br>もし事前情報で衛宮士郎と無関係だと明言されていたら、16騎目のサーヴァント=天草四郎の存在を伏せるギミックが成立し得なかっただろうという点が、容姿こそ似通えど事前にアルトリアと別人だとアナウンスが為された赤セイバーのケースと異なると言える。
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:実際、「TYPE-MOONエースVol.8」でシロウの名前と聖堂教会の神父という前情報が公開された'''第1巻発売の2週間前には『シロウはシロウでも漢字違いの別人ではないか』という予想から天草四郎の名前が挙がる'''ほど([http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/otaku/995/1355157046/ リンク先247-248])天草四郎の名は”シロウ”繋がりで連想しやすい人物名だった。<br>事前にアルトリアと別人だとアナウンスが為された赤セイバーのケースと異なり、もし事前情報で衛宮士郎と無関係だと明言されていたら、16騎目のサーヴァント=天草四郎の存在を伏せるギミックが成立し得なかっただろう。
    
;キリシタン弾圧
 
;キリシタン弾圧
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;島原の乱
 
;島原の乱
:三代将軍・徳川家光の治世の時に発生した、大阪の陣以降では初の大規模騒乱。一般には天草・島原藩によるキリシタン弾圧に反発した人々の騒乱という認識が広まっているが、実際は過重な年貢の取りたてが根本原因であり、キリシタンの反攻は2の次だった。<br>当時、島原藩を統治していた松倉勝家の治世は残虐を極め、多くの農民が暴政に苦しんでいた。<br>『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月(旧暦)、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。<br>こういった暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。<br>一揆軍は当初こそ優勢であったものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくるに従って追い詰められていき、島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。<br>幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで対処しよとするも、総大将に任じられた板倉重昌に討伐軍を統率するだけの力量が無く、攻撃は全て失敗。遂には重昌が戦死する事態となってしまう(実際は後述の援軍派遣決定を受けた焦りから自ら突撃するも戦死)。驚愕した幕府は「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平信綱を総大将として派遣。援軍を得た討伐軍は12万を数えたという。<br>信綱は無理な攻城は行わず、情報収集や矢文で投降を呼びかけるなどの心理戦を展開。更に一揆軍の食料が残り少ないと見て取ると、兵糧攻めにして一揆軍の弱体化を計った。篭城戦が始まった3ヵ月後の1638年2月27日(旧暦)、遂に総攻撃を開始、兵糧攻めで武器・食料を失っていた一揆軍は総崩れとなり、乱は鎮圧された。<br>なお、立て篭もった3万7千人全員が討ち取られたとされているが、最近の史料では1万人ほどが投降・脱出するなどして命を失わなかったと言われている。<br>乱の鎮圧後、松倉勝家は暴政によって騒乱を招いた責任を問われて改易された上に江戸に罪人として送られ、1638年8月(旧暦)、斬首刑となった。大名が切腹ではなく斬首となったのは後にも先にもこの時だけであり、さすがの幕府も勝家の暴政を重罪と見なした事が伺える。
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:三代将軍・徳川家光の治世の時に発生した、大阪の陣以降では初の大規模騒乱。一般には天草・島原藩によるキリシタン弾圧に反発した人々の騒乱という認識が広まっているが、実際は過重な年貢の取りたてが根本原因であり、キリシタンの反攻は2の次だった。<br>当時、島原藩を統治していた松倉勝家の治世は残虐を極め、多くの農民が暴政に苦しんでいた。<br>『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月(旧暦)、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。<br>こういった暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。<br>一揆軍は当初こそ優勢であったものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくるに従って追い詰められていき、島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。<br>幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで対処しようとするも、総大将に任じられた板倉重昌に討伐軍を統率するだけの力量が無く、攻撃は全て失敗。遂には重昌が戦死する事態となってしまう(実際は後述の援軍派遣決定を受けた焦りから自ら突撃するも戦死)。驚愕した幕府は「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平信綱を総大将として派遣。援軍を得た討伐軍は12万を数えたという。<br>信綱は無理な攻城は行わず、情報収集や矢文で投降を呼びかけるなどの心理戦を展開。更に一揆軍の食料が残り少ないと見て取ると、兵糧攻めにして一揆軍の弱体化を計った。篭城戦が始まった3ヵ月後の1638年2月27日(旧暦)、遂に総攻撃を開始、兵糧攻めで武器・食料を失っていた一揆軍は総崩れとなり、乱は鎮圧された。<br>なお、立て篭もった3万7千人全員が討ち取られたとされているが、最近の史料では1万人ほどが投降・脱出するなどして命を失わなかったと言われている。<br>乱の鎮圧後、松倉勝家は暴政によって騒乱を招いた責任を問われて改易された上に江戸に罪人として送られ、1638年8月(旧暦)、斬首刑となった。大名が切腹ではなく斬首となったのは後にも先にもこの時だけであり、さすがの幕府も勝家の暴政を重罪と見なした事が伺える。
    
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