差分
→話題まとめ
==話題まとめ==
==話題まとめ==
;新選組諸説
:現在伝わる新選組についての多くのイメージは、後世の小説・講談や様々なフィクションに影響されて形成されたものである。新選組の貴重な史料として有名なのは、子母沢寛の著した'''小説'''である『新選組始末記』や、二番隊隊長・永倉新八の'''老後の思い出話'''を編纂した『新選組顛末記』等であり、そのため武勇伝や事件の顛末、人物の立場や性格・能力に至るまで、かなりの嘘・誇張・勘違いが含まれている。例えば、かの有名な局中法度も現在では『新選組始末記』の創作である事が明らかになっている。
:さらに、司馬遼太郎の傑作小説『燃えよ剣』で描かれた新選組のイメージが非常に強く、一般に流布している新選組の評判の多くは、この小説に影響されている。他のサーヴァントでは、漫画『拳児』に影響された[[アサシン (EXTRA)]]、横山光輝の『三国志』の影響が強い[[バーサーカー (EXTRA・赤)]]などにも近い立ち位置と言える。
:宝具「誠の旗」の「発動者の心象によって召喚される隊士の面子や性格が多少変化する」と言う特性も、こういった事情を踏まえてのものであろう。だがこの宝具の説明にあるような「土方歳三は苛烈な性格である」「近藤勇はお固く規律に煩い」などと言う印象ですら、現在主流の説では極めて否定的である。
:全てを語り尽くせばこのページだけでは到底足りないため、桜セイバー・沖田総司にとって特に関係性の深い物を何点か下記に記す。
;実戦本意の剣術
;実戦本意の剣術
:「斬り合いなんて生きるか死ぬかでしょ」という言葉が示す通り、新撰組は元々荒くれ者の集団だっただけにかなり戦い方が激しかったらしい。副長土方歳三は斬り合いの際、敵に足下の砂をぶつけて怯んだ隙に斬り伏せ、首を絞めて絞殺するなどの凄まじい戦い方を見せ、ひたすら実戦本意の戦技を磨いていたらしい。
:「斬り合いなんて生きるか死ぬかでしょ」という言葉が示す通り、新撰組は元々荒くれ者の集団だっただけに、かなり戦い方が激しかったらしい。副長土方歳三は斬り合いの際、敵に足下の砂をぶつけて怯んだ隙に斬り伏せ、首を絞めて絞殺するなどの凄まじい戦い方を見せ、ひたすら実戦本意の戦技を磨いていたらしい。
*沖田自身も、隊では撃剣師範も務め、かなりのスパルタ教官だったらしい。沖田の指導を受けた者達の評判は「荒っぽくて、すぐ怒る」であり、師範の近藤より恐れられていた。<br>「'''刀で斬るな!体で斬れ!'''」と教えていたとか。
*沖田自身も、隊では撃剣師範も務め、かなりのスパルタ教官だったらしい。沖田の指導を受けた者達の評判は「荒っぽくて、すぐ怒る」であり、師範の近藤より恐れられていた。<br>「'''刀で斬るな!体で斬れ!'''」と教えていたとか。
*また、隊としても複数で一人ないし少数を攻撃する集団戦法を得意としており、沖田の天然理心流にも複数人での連携攻撃の方法論があったりもする。コハエースのおまけページでも'''必殺戦法:袋叩き'''とネタにされた。
*また、隊としても複数で一人ないし少数を攻撃する集団戦法を得意としており、沖田の天然理心流にも複数人での連携攻撃の方法論があったりもする。コハエースのおまけページでも'''必殺戦法:袋叩き'''とネタにされた。
;沖田の愛刀
;沖田の愛刀
:沖田の愛刀については諸説あるが、現在では『加州清光』と『大和守安定』がそれであったと言う説が強い。桜セイバーの愛刀となっている『乞食清光』は『加州清光』の愛称であり、この点では史実に沿っている。
:沖田の愛刀については諸説あるが、現在では『加州清光』と『大和守安定』がそれであったと言う説が強い。桜セイバーの愛刀となっている『乞食清光』は『加州清光』の愛称であり、この点では史実に沿っている。
:問題は『誓いの羽織』の効果で出現する『菊一文字則宗』。この銘を持つ刀は存在せず、完全に創作である。「一文字則宗に菊紋を入れたものを菊一文字と称する」とも言われているが、実際に菊紋の入った一文字則宗は見つかっていない。また、『一文字則宗』は幕末当時でも重要文化財クラスの超貴重品であり、新選組幹部と言えど到底手が出るレベルの刀ではない。沖田がこれを持っていたと言うのはまず創作であろう。
:問題は『誓いの羽織』の効果で出現する『菊一文字則宗』。この銘を持つ刀は存在せず、完全に創作である。「一文字則宗に菊紋を入れたものを菊一文字と称する」とも言われているが、実際に菊紋の入った一文字則宗は見つかっていない。また、『一文字則宗』は幕末当時でも重要文化財クラスの超貴重品であり、新選組幹部と言えど到底手が出るレベルの刀ではない。沖田がこれを持っていたと言うのはまず創作であろう。
:もちろん、創作であっても「持っていると言う伝承」があれば宝具として持つ事ができるのがサーヴァントであるが。
;ダンダラ羽織
;ダンダラ羽織
:桜セイバーの宝具であるダンダラ羽織は新撰組のシンボルとして余りに有名なデザインだが、実際は導入してから1年ほどで廃止されたらしい。池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録であるが、事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢、襠高袴、紺の脚絆、後鉢巻、白の襷であったという。<br>ただ、この羽織に関する証言は著しく少ないため、この1年の間でもどれほどの頻度で着ていたかどうかは不明。<br>浅葱色は武士が切腹のときに着る裃の色、忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした時に着ていた羽織の柄を、それぞれ参考にしており、赤穂浪士贔屓の近藤局長の案、とされている。が、これに関しても確定している訳ではない。そもそも浅葱色(薄い藍色)ではなく浅黄色(淡い黄色)だったのではないか、と言う説まであるほど(やや信頼度は低いが)。<br>また、大村藩士・渡辺昇の証言によれば、黒衣・黒袴であればすぐに新選組隊士であると判ったという。また新選組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたという証言もあり、現在ではダンダラ羽織の廃止後はこちらの隊服が主流となったと考えられている。
:桜セイバーの宝具であるダンダラ羽織は新撰組のシンボルとして余りに有名なデザインだが、実際は導入してから1年ほどで廃止されたらしい。池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録であるが、事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢、襠高袴、紺の脚絆、後鉢巻、白の襷であったという。<br>ただ、この羽織に関する証言は著しく少ないため、この1年の間でもどれほどの頻度で着ていたかどうかは不明。<br>「浅葱色は武士が切腹のときに着る裃の色、忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした時に着ていた羽織の柄を、それぞれ参考にしており、赤穂浪士贔屓の近藤局長の案」と言う説が有名だが、これに関しても確定している訳ではない。そもそも浅葱色(薄い藍色)ではなく浅黄色(淡い黄色)だったのではないか、と言う説まであるほど(やや信頼度は低いが)。<br>また、大村藩士・渡辺昇の証言によれば、黒衣・黒袴であればすぐに新選組隊士であると判ったという。また新選組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたという証言もあり、現在ではダンダラ羽織の廃止後はこちらの隊服が主流となったと考えられている。
;性格について
;性格について
*現在ではメンタル面が脆いという面があるが、むしろ気性の荒い人物だったとも言われている。土方と沖田が碁を打っている側で、三浦啓之助がある事情から他隊士を背後から斬りつけると、沖田は三浦が後ろから斬りつけた卑怯さに激怒し'''「この馬鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいた'''という逸話が残っている。
*現在ではメンタル面が脆いという印象があるが、むしろ気性の荒い人物だったとも言われている。土方と沖田が碁を打っている側で、三浦啓之助がある事情から他隊士を背後から斬りつけると、沖田は三浦が後ろから斬りつけた卑怯さに激怒し'''「この馬鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいた'''という逸話が残っている。
*子供好きだった面もあるのか屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようで、作家司馬遼太郎は新選組を題材とした作品を執筆する際に、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している。
*子供好きだった面もあるのか屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようで、作家司馬遼太郎は新選組を題材とした作品を執筆する際に、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している。
*『新選組始末記』では、沖田は池田屋での戦闘中に肺結核で喀血して倒れ、以後は新撰組の主な活動から離脱したという。しかし、沖田の離脱は『近藤勇書簡』『島田魁日記』では記述されておらず、翌月の禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動していた記録があり、その後も活動していることが確認されている。<br>1866年頃、幕府御典医・松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。1867年には周囲が認識し得るほど発病していたらしく、多くの診断記録が残されており、10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。<br>現在、池田屋での喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、これには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が池田屋で昏倒したことが記されている。<br>昏倒の原因は肺病の発症か、蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症等の一時的な体調不良かは不明だが、原因が肺病だったとしても少なくとも近藤や永倉等周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられる。
*『新選組始末記』では、沖田は池田屋での戦闘中に肺結核で喀血して倒れ、以後は新撰組の主な活動から離脱したという。しかし、沖田の離脱は『近藤勇書簡』『島田魁日記』では記述されておらず、翌月の禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動していた記録があり、その後も活動していることが確認されている。<br>1866年頃、幕府御典医・松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。1867年には周囲が認識し得るほど発病していたらしく、多くの診断記録が残されており、10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。<br>現在、池田屋での喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、これには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が池田屋で昏倒したことが記されている。<br>昏倒の原因は肺病の発症か、蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症等の一時的な体調不良かは不明だが、原因が肺病だったとしても少なくとも近藤や永倉等周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられる。
*甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るく強気な沖田がこの時だけは声を上げて泣いたという。また近藤の戦死について周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らず、死の間際まで「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。<br>そして近藤の死の2ヶ月後、沖田は近藤の死を知らぬ儘その生涯を閉じた。<br>辞世の句は「''動かねば 闇にへだつや 花と水''」。
*甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るく強気な沖田がこの時だけは声を上げて泣いたという。また近藤の戦死について周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らず、死の間際まで「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。<br>そして近藤の死の2ヶ月後、沖田は近藤の死を知らぬ儘その生涯を閉じた。<br>辞世の句は「''動かねば 闇にへだつや 花と水''」。
*死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたともいわれるが、この話は『新選組始末記』による創作であるといわれる。
*死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いた……ともいわれるが、この話は『新選組始末記』による創作である可能性が高い。
;謎の美剣士
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