差分

サイズ変更なし 、 2015年11月30日 (月) 20:04
編集の要約なし
213行目: 213行目:     
;性格について
 
;性格について
*桜セイバー自身は「いつも冷静でメンタル面が脆い」「陽気な大和撫子」であるが、沖田総司自身の性格はというとむしろ気性の荒い人物だったとも言われることも多く。土方と沖田が碁を打っている側で、三浦啓之助がある事情から他隊士を背後から斬りつけると、沖田は三浦が後ろから斬りつけた卑怯さに激怒し'''「この馬鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいた'''という逸話が残っている。
+
:桜セイバー自身は「いつも冷静でメンタル面が脆い」「陽気な大和撫子」であるが、沖田総司自身の性格はというとむしろ気性の荒い人物だったとも言われることも多く。土方と沖田が碁を打っている側で、三浦啓之助がある事情から他隊士を背後から斬りつけると、沖田は三浦が後ろから斬りつけた卑怯さに激怒し'''「この馬鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいた'''という逸話が残っている。
*子供好きだった面もあるのか屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようで、作家司馬遼太郎は新選組を題材とした作品を執筆する際に、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している。
+
:子供好きだった面もあるのか屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようで、作家司馬遼太郎は新選組を題材とした作品を執筆する際に、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している。
    
;病について
 
;病について
*『新選組始末記』では、沖田は池田屋での戦闘中に肺結核で喀血して倒れ、以後は新撰組の主な活動から離脱したという。しかし、沖田の離脱は『近藤勇書簡』『島田魁日記』では記述されておらず、翌月の禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動していた記録があり、その後も活動していることが確認されている。<br>1866年頃、幕府御典医・松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。1867年には周囲が認識し得るほど発病していたらしく、多くの診断記録が残されており、10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。<br>現在、池田屋での喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、これには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が池田屋で昏倒したことが記されている。<br>昏倒の原因は肺病の発症か、蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症等の一時的な体調不良かは不明だが、原因が肺病だったとしても少なくとも近藤や永倉等周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられる。
+
:『新選組始末記』では、沖田は池田屋での戦闘中に肺結核で喀血して倒れ、以後は新撰組の主な活動から離脱したという。しかし、沖田の離脱は『近藤勇書簡』『島田魁日記』では記述されておらず、翌月の禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動していた記録があり、その後も活動していることが確認されている。<br>1866年頃、幕府御典医・松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。1867年には周囲が認識し得るほど発病していたらしく、多くの診断記録が残されており、10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。<br>現在、池田屋での喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、これには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が池田屋で昏倒したことが記されている。<br>昏倒の原因は肺病の発症か、蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症等の一時的な体調不良かは不明だが、原因が肺病だったとしても少なくとも近藤や永倉等周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられる。
*甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るく強気な沖田がこの時だけは声を上げて泣いたという。また近藤の戦死について周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らず、死の間際まで「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。<br>そして近藤の死の2ヶ月後、沖田は近藤の死を知らぬ儘その生涯を閉じた。<br>辞世の句は「''動かねば 闇にへだつや 花と水''」。
+
:甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るく強気な沖田がこの時だけは声を上げて泣いたという。また近藤の戦死について周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らず、死の間際まで「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。<br>そして近藤の死の2ヶ月後、沖田は近藤の死を知らぬ儘その生涯を閉じた。<br>辞世の句は「''動かねば 闇にへだつや 花と水''」。
*死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いた……ともいわれるが、この話は『新選組始末記』による創作である可能性が高い。
+
:死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いた……ともいわれるが、この話は『新選組始末記』による創作である可能性が高い。
    
;最強であったか、最強であるか
 
;最強であったか、最強であるか
230行目: 230行目:  
;謎の美剣士
 
;謎の美剣士
 
*生年については天保13年(1842年)、または15年(1844年)の2つの説があり現在未確定となっている。生誕時の月日に関しては特定できる史料が一切出ておらず、夏であったということしか分かっていない。
 
*生年については天保13年(1842年)、または15年(1844年)の2つの説があり現在未確定となっている。生誕時の月日に関しては特定できる史料が一切出ておらず、夏であったということしか分かっていない。
*「若き天才剣士が労咳により夭逝してしまう」という悲劇的でドラマ性に富むその生涯から、多くの文学・漫画・ゲームに登場し、何れの作品でも彼のドラマ性を更に盛り上げるため、『剣に滅法強く、近所の子供たちと遊んであげる明るい性格で、その反面、病弱で色白の美青年』として描かれている。<br>八木家の者や新選組に関わった人物の証言では、「美青年であった」という明確なものは無く、むしろ「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」「肩の張り上がった」「猫背」と書かれたものが残っている。この記述から浮かび上がる人物像として、美青年説に疑義を唱える指摘もある。<br>ただし「総司=ヒラメ顔」説は、佐藤彦五郎の曾孫がテレビで谷春雄の話にのってつい口走ってしまったのが始まりらしく、谷は「総司がヒラメ顔」というのはのっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の間隔が寄っているからと話している。<br>沖田哲也はこの説を完全否定し、沖田家では総司の容姿について「色の白い、小さい男だった」という風に伝わっているという。<br>また明確に沖田の写真が確認されていないのは有名で、「沖田総司らしき人物」が一人で写っている写真、近藤勇と一緒に写っている写真が存在し、これらの写真では確かに目の間隔が寄っている。<br>眉は短く、髪は真ん中を剃っており、現代でいうポニーテールになっていて、この写真だと美青年である。この写真が現在最も有力なものとされているが、合成だとも言われ、結局の所、沖田総司の顔は謎のままである。<br>ロマンを考えるとずっと謎のままで良いかもしれない……。
+
:「若き天才剣士が労咳により夭逝してしまう」という悲劇的でドラマ性に富むその生涯から、多くの文学・漫画・ゲームに登場し、何れの作品でも彼のドラマ性を更に盛り上げるため、『剣に滅法強く、近所の子供たちと遊んであげる明るい性格で、その反面、病弱で色白の美青年』として描かれている。<br>八木家の者や新選組に関わった人物の証言では、「美青年であった」という明確なものは無く、むしろ「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」「肩の張り上がった」「猫背」と書かれたものが残っている。この記述から浮かび上がる人物像として、美青年説に疑義を唱える指摘もある。<br>ただし「総司=ヒラメ顔」説は、佐藤彦五郎の曾孫がテレビで谷春雄の話にのってつい口走ってしまったのが始まりらしく、谷は「総司がヒラメ顔」というのはのっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の間隔が寄っているからと話している。<br>沖田哲也はこの説を完全否定し、沖田家では総司の容姿について「色の白い、小さい男だった」という風に伝わっているという。<br>また明確に沖田の写真が確認されていないのは有名で、「沖田総司らしき人物」が一人で写っている写真、近藤勇と一緒に写っている写真が存在し、これらの写真では確かに目の間隔が寄っている。<br>眉は短く、髪は真ん中を剃っており、現代でいうポニーテールになっていて、この写真だと美青年である。この写真が現在最も有力なものとされているが、合成だとも言われ、結局の所、沖田総司の顔は謎のままである。<br>ロマンを考えるとずっと謎のままで良いかもしれない……。
**無数に生み出された沖田や新撰組を扱った創作の中には、美青年という俗説を誇張したあげく女性として扱った作品もある。つまり沖田女性設定を採用したのは桜セイバーが初めてではない。『コハエース』欄外で桜セイバーに当てられた「沖田総司は○カップ」の名前はそうした先駆者的作品、つかこうへい原作の演劇・映画『幕末純情伝』のキャッチコピーが元ネタである。
+
:無数に生み出された沖田や新撰組を扱った創作の中には、美青年という俗説を誇張したあげく女性として扱った作品もある。つまり沖田女性設定を採用したのは桜セイバーが初めてではない。『コハエース』欄外で桜セイバーに当てられた「沖田総司は○カップ」の名前はそうした先駆者的作品、つかこうへい原作の演劇・映画『幕末純情伝』のキャッチコピーが元ネタである。
    
== 商品情報 ==
 
== 商品情報 ==
240行目: 240行目:  
* [[サーヴァント]]
 
* [[サーヴァント]]
   −
{{DEFAULTSORT:おきたそうし}}
+
{{DEFAULTSORT:おきた そうし}}
    
[[Category:登場人物あ行]]
 
[[Category:登場人物あ行]]
10,592

回編集