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寛永十四年(1637年)、[[天草四郎時貞|キリシタン宗徒による反乱の報せ]]が届いてすぐの頃、宗矩は追討使の任を受けた板倉内膳正重昌を必死に引き留めようとした。何故と問い掛けた将軍家光に、宗矩は「宗教徒のいくさはすべて大事」「重昌殿は討ち死にするでしょう」と答えたという。
 
寛永十四年(1637年)、[[天草四郎時貞|キリシタン宗徒による反乱の報せ]]が届いてすぐの頃、宗矩は追討使の任を受けた板倉内膳正重昌を必死に引き留めようとした。何故と問い掛けた将軍家光に、宗矩は「宗教徒のいくさはすべて大事」「重昌殿は討ち死にするでしょう」と答えたという。
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事態は宗矩の読み通りに推移した。一万五千石の大名である重昌では、西国大名を率いるのに不足であり、結果として苦戦を強いられたのである。状況を重く見た将軍家光は重臣・松平信綱を総大将として送り込んだが、重昌はそれを知って焦り、信綱が到着するよりも前にと敵陣へ突撃し、あえなく討ち死にを遂げたのだった。
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宗矩の予見は的中した。才知溢れるものの一万五千石の小大名であった重昌は、多数が十万石以上を食む西国大名達に軽んじられ全軍を纏めきれず、苦戦を強いられるに至った。状況を重く見た将軍家光は「知恵伊豆」と讃えられた老中・松平伊豆守信綱を新たな総大将として江戸から進発させた。重昌はそれを知って焦り、信綱の到着前に島原城を落とさんと自ら陣頭に立ち総攻撃を仕掛け、眉間を撃ち抜かれて戦死した。(総攻撃自体も4000以上の損害を出して失敗した)
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家光は宗矩の言に従わなかったことを甚く後悔したという。
    
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