差分
→メモ
**北方の遼(契丹人の王朝)が勃興した金(女真族の王朝)によって滅亡寸前に陥ると北宋は金と同盟を結び、遼を挟み撃ちにする事で、燕雲十六州(約百八十年前の五代十国時代の後晋によって遼に割譲された領域で現在の北京周辺地域)の奪還を目論んだ。しかし、北宋の苛政に耐えられなくなった江南地方のマニ教徒による「方臘の乱」が発生し、遼に対する攻撃が遅れてしまう。更に燕京攻略戦でも童貫は滅亡寸前の遼に大敗、結局は金に燕京を落としてもらう事になり、領域の一部は北宋に引き渡される。しかし、北宋首脳部は燕雲十六州の完全奪還を目論み、遼の残党と手を結んだが、金にはすぐに察知されてしまい、金軍は北宋に侵攻を開始。軍事責任者の童貫が敵前逃亡を行うなど北宋は完全敗退し、徽宗は自ら退位し、欽宗に帝位を譲り、莫大な財貨を金に引き渡すことを約束して停戦が成立。そして、欽宗によって蔡京、童貫、李彦、朱勔、王黼、梁師成は「'''六賊'''」として糾弾され、死罪に処された。ただ蔡京は流刑先へ向かう途中に病死し、人々を悔しがらせたと言われている。
**北方の遼(契丹人の王朝)が勃興した金(女真族の王朝)によって滅亡寸前に陥ると北宋は金と同盟を結び、遼を挟み撃ちにする事で、燕雲十六州(約百八十年前の五代十国時代の後晋によって遼に割譲された領域で現在の北京周辺地域)の奪還を目論んだ。しかし、北宋の苛政に耐えられなくなった江南地方のマニ教徒による「方臘の乱」が発生し、遼に対する攻撃が遅れてしまう。更に燕京攻略戦でも童貫は滅亡寸前の遼に大敗、結局は金に燕京を落としてもらう事になり、領域の一部は北宋に引き渡される。しかし、北宋首脳部は燕雲十六州の完全奪還を目論み、遼の残党と手を結んだが、金にはすぐに察知されてしまい、金軍は北宋に侵攻を開始。軍事責任者の童貫が敵前逃亡を行うなど北宋は完全敗退し、徽宗は自ら退位し、欽宗に帝位を譲り、莫大な財貨を金に引き渡すことを約束して停戦が成立。そして、欽宗によって蔡京、童貫、李彦、朱勔、王黼、梁師成は「'''六賊'''」として糾弾され、死罪に処された。ただ蔡京は流刑先へ向かう途中に病死し、人々を悔しがらせたと言われている。
**しかし、徽宗の退位と六賊の排除を経ても北宋が立て直されることはなかった。欽宗を始めとする北宋首脳陣の金に対する現状認識は甘く、結局は金に差し出す財貨を惜しみ遼の残党と再び接触した事を金に嗅ぎ付けられてしまい、再度行われた軍事侵攻で北宋首都「開封」は陥落。皇帝欽宗や先帝徽宗を始め、4歳から28歳まで皇女達や宮女、財宝など様々な物が金によって持ち去られる「'''靖康の変'''」によって北宋は滅亡。城外で難を逃れた趙構によって南宋が建国された事で、宋王朝は命脈を辛うじて保つことに成功する。
**しかし、徽宗の退位と六賊の排除を経ても北宋が立て直されることはなかった。欽宗を始めとする北宋首脳陣の金に対する現状認識は甘く、結局は金に差し出す財貨を惜しみ遼の残党と再び接触した事を金に嗅ぎ付けられてしまい、再度行われた軍事侵攻で北宋首都「開封」は陥落。皇帝欽宗や先帝徽宗を始め、4歳から28歳まで皇女達や宮女、財宝など様々な物が金によって持ち去られる「'''靖康の変'''」によって北宋は滅亡。城外で難を逃れた趙構によって南宋が建国された事で、宋王朝は命脈を辛うじて保つことに成功する。
**六賊が北宋滅亡の下地を作ったのは事実だったが、滅亡の決定打はその六賊を排除した欽宗の手によって行われるという結果になった。
**六賊が北宋滅亡の下地を作ったのは事実だったが、滅亡の決定打はその六賊を排除した欽宗の手によって行われるという結果になった。ちなみに蔡京のみは燕雲十六州の奪還作戦に反対していたとされ、唯一先行きを見据えていた節がある。
== 脚注 ==
== 脚注 ==