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== メモ ==
 
== メモ ==
 
*中国史において「最強の武将は誰か?」という問いに[[呂布奉先|呂布]]や関羽と共に必ず名前が挙がる人物。なお、呂布とは「狂戦士」のクラスという共通点がある。
 
*中国史において「最強の武将は誰か?」という問いに[[呂布奉先|呂布]]や関羽と共に必ず名前が挙がる人物。なお、呂布とは「狂戦士」のクラスという共通点がある。
**ある戦いでは、寝込みを急襲したような形になったとはいえ、3万の軍勢で56万の漢軍を殲滅、そのうち20万を殺害…という冗談としか思えないような戦果を上げている。
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**楚漢戦争の彭城の戦いは、寝込みを急襲したような形になったとはいえ、3万の軍勢で56万の漢軍を殲滅、そのうち20万を殺害…という冗談としか思えないような戦果を上げている。
*異聞帯では理知的となっているが、史実の項羽は非常に短絡的な思考の持ち主で、それに伴う数々の失敗で劉邦に敗北する。
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**彭城の戦いでは楚軍の本拠地を占領して油断した漢軍56万を楚軍3万で強襲し、城内の漢軍は10万人が討ち取られ、残りの10万人は配送中に睢水の川に追い込まれ、溺死したと伝えられる。大量の漢軍兵士の死体で川が塞き止められたとも、真っ赤に染まったとも伝えられており、劉邦も戦死一歩手前にまで追い詰められた。後世の後漢末期の「合肥の戦い」や日本戦国時代の「関ヶ原の戦い」と共に寡兵で大軍を討ち破った代表的な戦いだと伝えられている。
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*異聞帯では理知的となっているが、史実の項羽は非常に短絡的な性格の持ち主で、それに伴う数々の失敗で劉邦に敗北する。
 
**特に『史記』を編纂した司馬遷は項羽を「自らの失敗を認めないのは、荒唐無稽にすぎる」と手厳しい。ただし、司馬遷は漢王朝の歴史家なので、漢にとって最大の強敵だった項羽を悪し様に描いている可能性は否定出来ない。その一方で、史記において項羽を王者として扱っており<ref group = "注">家臣たちの記録である「列伝」や諸侯の記録である「世家」ではなく、中華の支配者の記録である「本紀」に項羽を位置づけている。秦末の動乱期に王を称した人物はほとんど列伝か世家で、項羽のみ別格の扱いとなっている。そもそも、項羽というのは性+字(あざな)で姓名ではない。中国では目上以外の人間が、当該人物を名で呼ぶのは無礼とされ、その代わりに字で呼んでいた。従って、本来なら項籍と書くべきところを、項羽と書くのは尊敬の現われであり、史書において実名を書かない待遇を受けているのは、皇帝を除いてはほんの僅かである。</ref>、また項羽の最後の場面を極めてかっこよく、感動的に書いているので作家の田中芳樹は「司馬遷は項羽のことが、実は好きで好きでたまらなかったのでは」と述べている。
 
**特に『史記』を編纂した司馬遷は項羽を「自らの失敗を認めないのは、荒唐無稽にすぎる」と手厳しい。ただし、司馬遷は漢王朝の歴史家なので、漢にとって最大の強敵だった項羽を悪し様に描いている可能性は否定出来ない。その一方で、史記において項羽を王者として扱っており<ref group = "注">家臣たちの記録である「列伝」や諸侯の記録である「世家」ではなく、中華の支配者の記録である「本紀」に項羽を位置づけている。秦末の動乱期に王を称した人物はほとんど列伝か世家で、項羽のみ別格の扱いとなっている。そもそも、項羽というのは性+字(あざな)で姓名ではない。中国では目上以外の人間が、当該人物を名で呼ぶのは無礼とされ、その代わりに字で呼んでいた。従って、本来なら項籍と書くべきところを、項羽と書くのは尊敬の現われであり、史書において実名を書かない待遇を受けているのは、皇帝を除いてはほんの僅かである。</ref>、また項羽の最後の場面を極めてかっこよく、感動的に書いているので作家の田中芳樹は「司馬遷は項羽のことが、実は好きで好きでたまらなかったのでは」と述べている。
 
**項羽と劉邦の双方に仕え重用された陳平は、劉邦の人柄を「傲慢で無礼」としている一方で項羽の人柄を「恭敬で人を愛する」と評している。なので「理知的で礼儀正しい項羽」というのは、史実からそう外れたキャラ付けではない。
 
**項羽と劉邦の双方に仕え重用された陳平は、劉邦の人柄を「傲慢で無礼」としている一方で項羽の人柄を「恭敬で人を愛する」と評している。なので「理知的で礼儀正しい項羽」というのは、史実からそう外れたキャラ付けではない。
 
**ただし上記の評価はその後に「褒美を出し惜しむので人が従わない」と続き、劉邦のほうは「褒美をよく出すので利を好む連中が集ってくる」と続く。項羽がケチであることは、同時代の人物の多くが証言しており、秦末から楚漢戦争に突入していく切っ掛けの一つにもなった。一個人としてどちらの人格が優れていたかはともかく、君主として劉邦が項羽に勝っていたのは間違いないだろう。
 
**ただし上記の評価はその後に「褒美を出し惜しむので人が従わない」と続き、劉邦のほうは「褒美をよく出すので利を好む連中が集ってくる」と続く。項羽がケチであることは、同時代の人物の多くが証言しており、秦末から楚漢戦争に突入していく切っ掛けの一つにもなった。一個人としてどちらの人格が優れていたかはともかく、君主として劉邦が項羽に勝っていたのは間違いないだろう。
***もっとも、皇帝に即位後の劉邦は元々の猜疑心の強さが顕著になり、韓信などの功臣を死に追いやっているのだが。
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***もっとも、皇帝に即位後の劉邦は元々の猜疑心の強さが顕著になり、韓信などの功臣を死に追いやっている。ただし、漢が設立直後で反乱に対して劉邦自身が親征して鎮圧するなど、情勢が全く安定していない時代であることは考慮する必要がある。
 
**ちなみに24歳で活動を開始し、30歳ぐらいでこの世を去っている。どちらかといえば子供っぽいのかもしれない。
 
**ちなみに24歳で活動を開始し、30歳ぐらいでこの世を去っている。どちらかといえば子供っぽいのかもしれない。
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***外黄城を攻め落とした際には軍民問わずに15歳以上の男子を皆殺しにしようとした際には、仇叔(きゅうしゅく)という13歳の子供に虐殺をしないことの利を説かれて、中止した等の逸話も残されている。
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*苛烈なエピソードも非常に多く、秦の首都「咸陽」に進軍した際にはその進路上の都市を落とすと、軍民問わずに皆殺しにしていたが、結果的にこの方法は進退窮まった敵軍の猛烈な抵抗に合い、劉邦に咸陽制圧の先を越されてしまった。他にも秦の降将章邯と共に項羽に従った秦兵が反乱を起こそうとした際には20万人に夜襲を掛けて、丸ごと生き埋めにしたりするなど容赦がなく、自軍の軍師で亜父(父に次ぐ者)と呼んで信頼した范増にすら「他人にひどいことをすることに忍びない」を評されている。
 
*2部開始前からCM等の映像に出演していたサーヴァントの一人。その特異なシルエットから真名予想の難易度も高く、一部では「[[赤兎馬|赤兎馬と人馬一体(物理)になった呂布]]」という予想が有力視されていた。
 
*2部開始前からCM等の映像に出演していたサーヴァントの一人。その特異なシルエットから真名予想の難易度も高く、一部では「[[赤兎馬|赤兎馬と人馬一体(物理)になった呂布]]」という予想が有力視されていた。
  
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