差分
→メモ
**「唐を滅亡に追いやった傾国の美女」の印象を持たれやすいが、彼女の死去は756年、唐が滅びたのは907年と実は'''150年'''の開きがあり、彼女が原因で国が滅びたわけではない。ただし、彼女の時代に発生した「安史の乱」以降、唐はついに国力も国威も回復は果たせずに衰退し、滅亡した。「安史の乱」の首謀者の安禄山は楊貴妃の死を知って、非常に嘆き、悲しんだと伝えられており、彼が反乱を起こした原因を楊貴妃に求められることもある。
**「唐を滅亡に追いやった傾国の美女」の印象を持たれやすいが、彼女の死去は756年、唐が滅びたのは907年と実は'''150年'''の開きがあり、彼女が原因で国が滅びたわけではない。ただし、彼女の時代に発生した「安史の乱」以降、唐はついに国力も国威も回復は果たせずに衰退し、滅亡した。「安史の乱」の首謀者の安禄山は楊貴妃の死を知って、非常に嘆き、悲しんだと伝えられており、彼が反乱を起こした原因を楊貴妃に求められることもある。
**彼女自身は政治にはあまり介入していなかったとされており、大規模な贅沢も、他の后妃の迫害もなかった。従って現在では唐を傾ける原因になったのは事実だが、玄宗皇帝や楊国忠ら一族との連帯責任以外は罪に問えないという考え方が一般的とされている。
**彼女自身は政治にはあまり介入していなかったとされており、大規模な贅沢も、他の后妃の迫害もなかった。従って現在では唐を傾ける原因になったのは事実だが、玄宗皇帝や楊国忠ら一族との連帯責任以外は罪に問えないという考え方が一般的とされている。
**また、玄宗皇帝は「開元の治」と呼ばれる優れた政治を行う非常に優れた皇帝で、彼の治世前半期は唐の最盛期でもあり、歴代中国王朝でも最も安定した時代と後世からも評価される程だった。しかし、平和の中で徐々に政治に関心を失いつつある時に楊貴妃と出会い、そのまま彼女に惚れ込んでしまった。「朝廷に顔を出さなくなった」と歌われ、楊貴妃の親族「楊国忠」と塞外の胡出身の「安禄山」が皇帝と楊貴妃の寵愛と権力を巡る政争を繰り広げた結果、「安史の乱」が発生してしまった。玄宗皇帝の前半期がなまじ優秀かつ民への労りを示していた人物だけに、その堕落の一因となった楊貴妃の「傾国の美女」イメージを深いものにしている事は否めない。
**また、玄宗皇帝は非常に優れた皇帝で、彼の治世前半期は唐の最盛期でもあり、「開元の治」呼ばれる優れた政治を行い、歴代中国王朝でも最も安定した時代と後世からも評価される程だった。しかし、平和の中で徐々に政治に関心を失いつつある時に楊貴妃と出会い、そのまま彼女に惚れ込んでしまった。「朝廷に顔を出さなくなった」と歌われ、楊貴妃の親族「楊国忠」と塞外の胡出身の「安禄山」が皇帝と楊貴妃の寵愛と権力を巡る政争を繰り広げた結果、「安史の乱」が発生してしまった。玄宗皇帝の前半期がなまじ優秀かつ民への労りを示していた人物だけに、その堕落の一因となった楊貴妃の「傾国の美女」イメージを深いものにしている事は否めない。
***ちなみに玄宗皇帝は政治的に堕落しても、民への配慮は決して失っておらず、安史の乱で首都陥落が確実となり、蜀へ避難する際には「後から逃げてくる民の為」に、橋を焼き落とすのを諫めたり、首都陥落時に宝物庫を焼き払おうとした部下に「宝物を得られなければ、民に対しての略奪が激しくなる」と制止するなど、政治的には堕落しても為政者としての民への配慮は忘れていなかったことを留意する必要がある。
***ちなみに玄宗皇帝は堕落後も、民への配慮は決して失っておらず、安史の乱で首都陥落が確実となり、蜀へ避難する際には「後から逃げてくる民の為」に、橋を焼き落とすのを諫めたり、首都陥落時に宝物庫を焼き払おうとした部下に「宝物を得られなければ、民に対しての略奪が激しくなる」と制止するなど、政治的には堕落しても為政者としての民への配慮は忘れていなかった。楊貴妃との出会いによって「'''政治的に堕落しても、人格的な堕落はしなかった'''」、楊貴妃によって皇帝が暗君となっても暴君になった訳ではなく、楊貴妃が皇帝の人格に影響を与えた訳ではない事を留意する必要がある。
*彼女と玄宗皇帝の結末は当時の詩人たちに格好の題材を与えることとなり、様々な唄や詩が生み出されることになる。
*彼女と玄宗皇帝の結末は当時の詩人たちに格好の題材を与えることとなり、様々な唄や詩が生み出されることになる。