**身体(内部の意識)には3種類の能力があるとされる。記憶の力(対象を求めて獲得)、耳の力(保持・回想)、知慧の力(嘱目・識別・活動)、そして知慧は天眼(メーノーグ的観照)に到達出来る。身体(外部の意識)には7つの特別なものが創出され、その中の5つは感官(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)がある。喜悦には2種類あり、内から起こって外へ向かうもの、外から起こって内へ向かうもの(恐らく上述の内的要因と外的要因の話)。認識(知)と喜悦は両方とも力であり、知は生気を経て、喜悦は意欲の道を経て心(思考)に到る。知は生気から心への道が完全かつ清浄であるとき天眼になり、喜悦のほうにも多少影響を与える。喜悦の過多により中庸でなくなることは知の欠如であり、無自覚となる。逆に喜悦が欠如し知が過多となれば厚顔無恥となる。ようは視覚ではなく知慧こそが天眼に到達出来るとされ、知慧と喜悦の合一される中庸であることが重要という考え。 | **身体(内部の意識)には3種類の能力があるとされる。記憶の力(対象を求めて獲得)、耳の力(保持・回想)、知慧の力(嘱目・識別・活動)、そして知慧は天眼(メーノーグ的観照)に到達出来る。身体(外部の意識)には7つの特別なものが創出され、その中の5つは感官(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)がある。喜悦には2種類あり、内から起こって外へ向かうもの、外から起こって内へ向かうもの(恐らく上述の内的要因と外的要因の話)。認識(知)と喜悦は両方とも力であり、知は生気を経て、喜悦は意欲の道を経て心(思考)に到る。知は生気から心への道が完全かつ清浄であるとき天眼になり、喜悦のほうにも多少影響を与える。喜悦の過多により中庸でなくなることは知の欠如であり、無自覚となる。逆に喜悦が欠如し知が過多となれば厚顔無恥となる。ようは視覚ではなく知慧こそが天眼に到達出来るとされ、知慧と喜悦の合一される中庸であることが重要という考え。 |