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**高俅は燕青の主である盧俊義を死に追いやった人物で、作中の彼からは「蹴鞠野郎」と忌み嫌われている。水滸伝の物語では最大の悪役として存在感を放つが、史実では軍事費着服に手を染めるなど奸臣だったのは事実だが、他の奸臣達と比べると悪行と業績に関して大きく劣っている小悪党の印象が強い。また、旧法派の蘇軾の元で書記を務めていた経験があり、後に新法派であった蔡京によって蘇軾の一族が追い落とされて困窮した際には恩義に報いるべく、生涯に渡って援助を行い続けた逸話も残るなど義理堅い一面も伝えられる。史実の高俅は良くも悪くも任侠寄りの人物であったとされており、史実と水滸伝では人物像にかなりの差がある。
 
**高俅は燕青の主である盧俊義を死に追いやった人物で、作中の彼からは「蹴鞠野郎」と忌み嫌われている。水滸伝の物語では最大の悪役として存在感を放つが、史実では軍事費着服に手を染めるなど奸臣だったのは事実だが、他の奸臣達と比べると悪行と業績に関して大きく劣っている小悪党の印象が強い。また、旧法派の蘇軾の元で書記を務めていた経験があり、後に新法派であった蔡京によって蘇軾の一族が追い落とされて困窮した際には恩義に報いるべく、生涯に渡って援助を行い続けた逸話も残るなど義理堅い一面も伝えられる。史実の高俅は良くも悪くも任侠寄りの人物であったとされており、史実と水滸伝では人物像にかなりの差がある。
 
*六賊の各構成員はかなり個性的で、内実は下記の通り。徽宗が芸術家皇帝だったため、文化人や芸術に博識な人物が多い。
 
*六賊の各構成員はかなり個性的で、内実は下記の通り。徽宗が芸術家皇帝だったため、文化人や芸術に博識な人物が多い。
**蔡京:宰相。極めて優れた実務能力を持つが権力欲が強く、主義主張に節操がなかったと言われる。優れた文化人であり、絵画や詩文に優れた技量を持つ。ちなみに息子の蔡攸も奸臣だった。
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**蔡京:16年間に渡り宰相を務めた。極めて優れた実務能力を持つが権力欲が強く、主義主張に節操がなかったと言われる。優れた文化人であり、絵画や詩文に優れた技量を持つ。ちなみに息子の蔡攸も奸臣だった。
 
**童貫:去勢され男性機能を失ったはずの宦官にも関わらず、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした巨躯を誇りで顎鬚まで生えていたという宦官将軍。骨董の目利きに優れたため出世できたとされる。
 
**童貫:去勢され男性機能を失ったはずの宦官にも関わらず、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした巨躯を誇りで顎鬚まで生えていたという宦官将軍。骨董の目利きに優れたため出世できたとされる。
 
**李彦:膨大な土地を収め農民から収奪を繰り返した宦官。
 
**李彦:膨大な土地を収め農民から収奪を繰り返した宦官。
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**王黼:蔡京の子分で引退後は宰相を引き継き、婦女暴行や汚職を繰り返した。
 
**王黼:蔡京の子分で引退後は宰相を引き継き、婦女暴行や汚職を繰り返した。
 
**梁師成:宦官でありながら科挙に合格するなど学識と芸術に優れ、影の宰相と言われた。
 
**梁師成:宦官でありながら科挙に合格するなど学識と芸術に優れ、影の宰相と言われた。
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*徽宗と六賊によって北宋の国内は大きく乱れ、国力は低下。そして外交でも不義理を重ねてしまい、北宋滅亡の原因を作る事になる。
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**北方の遼(契丹人の王朝)が勃興した金(女真族)によって滅亡寸前に陥ると北宋は金と同盟を結び、遼を挟み撃ちにする事で、燕雲十六州(約百八十年前の五代十国時代の後晋によって遼に割譲された領域で現在の北京周辺地域)の奪還を目論んだ。しかし、北宋の苛政に耐えられなくなった江南地方マニ教徒による「方臘の乱」が発生し、対遼に対する攻撃が遅れてしまい、更に燕京攻略戦でも滅亡寸前の遼に大敗、結局は金に燕京を落としてもらい、領域の一部は北宋に引き渡される。しかし、北宋首脳部は燕雲十六州の完全奪還を目論み、遼の残党と手を結んだが、金にはすぐに察知されてしまい、金軍は北宋に侵攻を開始。軍事責任者の童貫が敵前逃亡を行うなど北宋は完全敗退し、徽宗は自ら退位し、欽宗に帝位を譲り、莫大な財貨を金に引き渡すことを約束して停戦が成立して金軍は撤退。そして、欽宗によって蔡京、童貫、李彦、朱勔、王黼、梁師成は「'''六賊'''」として糾弾され、死罪に処された。ただ蔡京は流刑先へ向かう途中に病死し、人々を悔しがらせたと言われている。
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**徽宗の退位と六賊の排除で北宋は立ち直ったという事はなく、欽宗を始めとする北宋首脳陣の金に対する現状認識は甘く、結局は金に差し出す財貨を惜しみ遼の残党と再び接触した事を金に嗅ぎ付けられてしまい、再度行われた軍事侵攻で北宋首都「開封」は陥落。皇帝欽宗や先帝徽宗を始め、4歳から28歳まで皇女達や宮女、財宝など様々な物が金によって持ち去られる「靖康の変」によって北宋は滅亡。城外で難を逃れた趙構によって南宋が建国された事で、宋王朝は命脈を辛うじて保つことになった。
    
== 脚注 ==
 
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