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**対秦戦争の山場である鉅鹿戦では、手持ちの兵力が5万から10万なのに対し、敵の秦軍は30万以上、率いるのは秦最後の名将、章邯<ref group = "注" >どれくらいの化け物かというと、跳梁跋扈する反乱軍を一匹残らず殲滅した秦の白い悪魔というべき存在。柔軟な思考の持ち主で、陳勝・呉広の乱を囚人兵(敵を倒せば自由にすると約束し、その約束を守った)で鎮圧し、頂梁も章邯に敗北して戦死している。鉅鹿戦の後も互角以上の戦力を有していたが、首都に向かわせた使者から「負けても殺されるし、勝っても冤罪を着せられて殺される」という報告を受けたので頂羽に降伏した。余力を残した状態で降伏したため、後に章邯と数名の高級将校以外は生き埋めという悲劇を迎えることになってしまった。劉邦が漢中に左遷された後は、監視役として旧秦領に留め置かれたが、生き埋めの一件で秦の旧臣達からはかなり恨まれ、劉邦との戦いでは孤立無援の状態となり、最期は張良の策略に引っ掛かって大敗し自害に追い込まれてしまう。</ref>という化け物を相手に、手持ちの食料だけで狂戦士のような突撃を繰り返して勝利。この結果、秦の最後の戦力は壊滅し、対秦軍領袖の地位を不動の物とした。その一方で劉邦軍が回り道をする形で進撃し、項羽よりも先に秦の首都を落としていた。
 
**対秦戦争の山場である鉅鹿戦では、手持ちの兵力が5万から10万なのに対し、敵の秦軍は30万以上、率いるのは秦最後の名将、章邯<ref group = "注" >どれくらいの化け物かというと、跳梁跋扈する反乱軍を一匹残らず殲滅した秦の白い悪魔というべき存在。柔軟な思考の持ち主で、陳勝・呉広の乱を囚人兵(敵を倒せば自由にすると約束し、その約束を守った)で鎮圧し、頂梁も章邯に敗北して戦死している。鉅鹿戦の後も互角以上の戦力を有していたが、首都に向かわせた使者から「負けても殺されるし、勝っても冤罪を着せられて殺される」という報告を受けたので頂羽に降伏した。余力を残した状態で降伏したため、後に章邯と数名の高級将校以外は生き埋めという悲劇を迎えることになってしまった。劉邦が漢中に左遷された後は、監視役として旧秦領に留め置かれたが、生き埋めの一件で秦の旧臣達からはかなり恨まれ、劉邦との戦いでは孤立無援の状態となり、最期は張良の策略に引っ掛かって大敗し自害に追い込まれてしまう。</ref>という化け物を相手に、手持ちの食料だけで狂戦士のような突撃を繰り返して勝利。この結果、秦の最後の戦力は壊滅し、対秦軍領袖の地位を不動の物とした。その一方で劉邦軍が回り道をする形で進撃し、項羽よりも先に秦の首都を落としていた。
 
**楚漢戦争の彭城の戦いは、寝込みを急襲したような形になったとはいえ、3万の軍勢で56万の漢軍を殲滅、そのうち20万を殺害…という冗談としか思えないような戦果を上げている。
 
**楚漢戦争の彭城の戦いは、寝込みを急襲したような形になったとはいえ、3万の軍勢で56万の漢軍を殲滅、そのうち20万を殺害…という冗談としか思えないような戦果を上げている。
**彭城の戦いでは楚軍の本拠地を占領して油断した漢軍56万を楚軍3万で強襲し、城内の漢軍は10万人が討ち取られ、残りの10万人は敗走中に睢水の川に追い込まれ、溺死したと伝えられる。大量の漢軍兵士の死体で川が塞き止められたとも、真っ赤に染まったとも伝えられており、劉邦も戦死一歩手前にまで追い詰められた。後世の後漢末期の「合肥の戦い」<ref group = "注">呉の孫権が率いる10万の軍勢を、魏の将軍で呂布の元部下の張遼が僅か7000で破った戦い。この戦いで張遼の武名は天下に轟き、呉では「遼来々(張遼が来た)!」と言うだけで泣く子供も黙りこんだとされる。なお、合肥の戦いに限らず「官渡の戦い」や「赤壁の戦い」、「夷陵の戦い」と言った三国志の代表的な戦いは、寡兵が大軍を破った戦いとなっている。</ref>や五胡十六国時代の「淝水の戦い」<ref group = "注">西暦383年に華北の前秦と江南の東晋が激突した戦い。前秦軍120万に対し、東晋軍は8万で対峙。しかし、雑多な民族の集まりで統制が取れていなかった前秦軍は作戦ミスで混乱状態に陥り、そこに突撃してきた東晋軍によって潰滅してしまう。前秦は参加兵力の実に80%以上を失い、数年後に滅亡する。</ref>や日本戦国時代の「桶狭間の戦い」と共に、寡兵で大軍を討ち破った代表的な戦いだと伝えられている。
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***ちなみにこの戦いの詳細は楚軍の本拠地を占領して油断した漢軍56万を楚軍3万で強襲し、城内の漢軍は10万人が討ち取られ、残りの10万人は敗走中に睢水の川に追い込まれ、溺死したと伝えられる。大量の漢軍兵士の死体で川が塞き止められたとも、真っ赤に染まったとも伝えられており、劉邦も戦死一歩手前にまで追い詰められた。後世の後漢末期の「合肥の戦い」<ref group = "注">呉の孫権が率いる10万の軍勢を、魏の将軍で呂布の元部下の張遼が僅か7000で破った戦い。この戦いで張遼の武名は天下に轟き、呉では「遼来々(張遼が来た)!」と言うだけで泣く子供も黙りこんだとされる。なお、合肥の戦いに限らず「官渡の戦い」や「赤壁の戦い」、「夷陵の戦い」と言った三国志の代表的な戦いは、寡兵が大軍を破った戦いとなっている。</ref>や五胡十六国時代の「淝水の戦い」<ref group = "注">西暦383年に華北の前秦と江南の東晋が激突した戦い。前秦軍120万に対し、東晋軍は8万で対峙。しかし、雑多な民族の集まりで統制が取れていなかった前秦軍は作戦ミスで混乱状態に陥り、そこに突撃してきた東晋軍によって潰滅してしまう。前秦は参加兵力の実に80%以上を失い、数年後に滅亡する。</ref>や日本戦国時代の「桶狭間の戦い」と共に、寡兵で大軍を討ち破った代表的な戦いだと伝えられている。
 
*項羽は非常に直截的な性格の持ち主だった。これは彼を英雄と慕う楚兵にとっての大きな魅力だったが、一方でそれに伴う数々の政治的失敗があり、結果的に劉邦に敗北する。
 
*項羽は非常に直截的な性格の持ち主だった。これは彼を英雄と慕う楚兵にとっての大きな魅力だったが、一方でそれに伴う数々の政治的失敗があり、結果的に劉邦に敗北する。
 
**特に『史記』を編纂した司馬遷は項羽を「自らの失敗を認めないのは、荒唐無稽にすぎる」と手厳しい。しかし一方で、史記において項羽を王者として扱っており、その行跡に関する描写も豊かである<ref group = "注">家臣たちの記録である「列伝」や諸侯の記録である「世家」ではなく、中華の支配者の記録である「本紀」に項羽を位置づけている。秦末の動乱期に王を称した人物はほとんど列伝か世家で、項羽のみ別格の扱いとなっている。そもそも、項羽というのは性+字(あざな)で姓名ではない。中国では目上以外の人間が、当該人物を名で呼ぶのは無礼とされ、その代わりに字で呼んでいた。従って、本来なら項籍と書くべきところを、項羽と書くのは尊敬の現われであり、史書において実名を書かない待遇を受けているのは、皇帝を除いてはほんの僅かである。ちなみに、劉邦の正室で中国三大悪女の一人とされた呂雉も「本紀」に記載されている。</ref>。「史記」は司馬遷が亡父の遺志を継ぎ、個人として編んだ史書であるため、劉邦(漢王朝の創始者)と敵対した項羽に対しても、好意的とさえいえる視点で書かれている(無論欠点についても項羽・劉邦ともにしっかりと書かれている)。
 
**特に『史記』を編纂した司馬遷は項羽を「自らの失敗を認めないのは、荒唐無稽にすぎる」と手厳しい。しかし一方で、史記において項羽を王者として扱っており、その行跡に関する描写も豊かである<ref group = "注">家臣たちの記録である「列伝」や諸侯の記録である「世家」ではなく、中華の支配者の記録である「本紀」に項羽を位置づけている。秦末の動乱期に王を称した人物はほとんど列伝か世家で、項羽のみ別格の扱いとなっている。そもそも、項羽というのは性+字(あざな)で姓名ではない。中国では目上以外の人間が、当該人物を名で呼ぶのは無礼とされ、その代わりに字で呼んでいた。従って、本来なら項籍と書くべきところを、項羽と書くのは尊敬の現われであり、史書において実名を書かない待遇を受けているのは、皇帝を除いてはほんの僅かである。ちなみに、劉邦の正室で中国三大悪女の一人とされた呂雉も「本紀」に記載されている。</ref>。「史記」は司馬遷が亡父の遺志を継ぎ、個人として編んだ史書であるため、劉邦(漢王朝の創始者)と敵対した項羽に対しても、好意的とさえいえる視点で書かれている(無論欠点についても項羽・劉邦ともにしっかりと書かれている)。
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***外黄城を攻め落とした際には軍民問わずに15歳以上の男子を皆殺しにしようとしたが、仇叔(きゅうしゅく)という13歳の子供に虐殺をしないことの利を説かれ、中止した逸話も残されている。
 
***外黄城を攻め落とした際には軍民問わずに15歳以上の男子を皆殺しにしようとしたが、仇叔(きゅうしゅく)という13歳の子供に虐殺をしないことの利を説かれ、中止した逸話も残されている。
 
***秦を滅ぼした後の分封では、功績を上げた人間よりも、項羽と仲がいい人間を優遇した。露骨なまでの依怙贔屓ぶりが、楚漢戦争のきっかけになった。
 
***秦を滅ぼした後の分封では、功績を上げた人間よりも、項羽と仲がいい人間を優遇した。露骨なまでの依怙贔屓ぶりが、楚漢戦争のきっかけになった。
***秦を滅ぼして事実上中華の王になったにも関わらず、当時もっとも豊かな土地だった関中(旧秦領)の王にはならず、祖国の楚王となった。関中の王にならない理由を諫議大夫(主の政策に誤りがあると判断した場合、その方針を諫めたり、忠告する役職)の韓生に問われると、項羽は「富貴を得て、故郷に帰らないのは、夜中に一張羅を着て歩くのと同じだ。誰もみてくれない」と語った。韓生は退出した後に「人は「楚人は猿が冠を被っているのと同じだ」というが、まさにその通りだ」とうそぶいたので、項羽は怒って韓生を釜ゆでにしてしまった。楚漢戦争が始まると関中は真っ先に劉邦の領土となった。劉邦が項羽に勝てたのもチート級の逸材が揃っていた事に加えて、関中からの補給が滞りなく行われたことも理由に上げられる。
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***秦を滅ぼして事実上中華の王になったにも関わらず、当時もっとも豊かな土地だった関中(旧秦領)の王にはならず、祖国の楚王となった。関中の王にならない理由を諫議大夫(主の政策に誤りがあると判断した場合、その方針を諫めたり、忠告する役職)の韓生に問われると、項羽は「富貴を得て、故郷に帰らないのは、夜中に一張羅を着て歩くのと同じだ。誰もみてくれない」と語った。韓生は退出した後に「人は『'''楚人は猿が冠を被っているのと同じだ(楚人沐猴而冠:そじんぼっこうじかん)'''』というが、まさにその通りだ」とうそぶいたので、項羽は怒って韓生を釜ゆでにしてしまった。楚漢戦争が始まると関中は真っ先に劉邦の領土となった。劉邦が項羽に勝てたのもチート級の逸材が揃っていた事に加えて、関中からの補給が滞りなく行われたことも理由に上げられる。ちなみに「楚人沐猴而冠」は「'''外見は冠をかぶって立派に見えるけど、実際やっていることは猿並みの愚か者'''」の意で、現在の中国では「沐猴而冠」という四字成語の語源となっており、意味は「外見だけを着飾って中身がない者」もしくは「悪勢に加担し、権勢を得る者」となる。
****ちなみに上記の韓生を処刑した件は、韓生にも非はあるが、主を諫める立場の者が容赦なく処刑されるという事態を前に、項羽へ意見する者がほぼいなくなってしまい、悪い意味での独裁体制が確立してしまったともいえる。唯一意見する事が出来たのは軍師であり、最も信頼を寄せていた范増くらいだが、その意見の多くもあまり聞き入れられなかったといわれている(漢設立後に劉邦は項羽の敗因に関して「'''自分は諸将を使いこなせたが、項羽は范増一人すら使いこなせなかったから'''」と述べたとされている)。
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****上記の韓生を処刑した件は、韓生にも非はあるが、主を諫める立場の者が容赦なく処刑されるという事態を前に、項羽へ意見する者がほぼいなくなってしまい、悪い意味での独裁体制が確立してしまったともいえる。唯一意見する事が出来たのは軍師であり、最も信頼を寄せていた范増くらいだが、その意見の多くもあまり聞き入れられなかったといわれている(漢設立後に劉邦は項羽の敗因に関して「'''自分は諸将を使いこなせたが、項羽は范増一人すら使いこなせなかったから'''」と述べたとされている)。
 
*苛烈なエピソードは多く、秦の首都「咸陽」に進軍した際にはその進路上の都市を落とすと、軍民も女子供も問わずに皆殺しにしていたが、結果的にこの方法は「'''項羽軍には降伏しても皆殺しにされてしまう'''」として進退窮まった敵軍の猛烈な抵抗に合い、劉邦に咸陽制圧の先を越されてしまった。他にも秦の降将章邯と共に項羽に従った秦兵が反乱を起こそうとした際には20万人に夜襲を掛けて、丸ごと生き埋めにしたりするなど容赦がなく、自軍の軍師で亜父(父に次ぐ者)と呼んで信頼した范増にすら「他人にひどいことをすることに忍びない(我慢がない)」を評されている。
 
*苛烈なエピソードは多く、秦の首都「咸陽」に進軍した際にはその進路上の都市を落とすと、軍民も女子供も問わずに皆殺しにしていたが、結果的にこの方法は「'''項羽軍には降伏しても皆殺しにされてしまう'''」として進退窮まった敵軍の猛烈な抵抗に合い、劉邦に咸陽制圧の先を越されてしまった。他にも秦の降将章邯と共に項羽に従った秦兵が反乱を起こそうとした際には20万人に夜襲を掛けて、丸ごと生き埋めにしたりするなど容赦がなく、自軍の軍師で亜父(父に次ぐ者)と呼んで信頼した范増にすら「他人にひどいことをすることに忍びない(我慢がない)」を評されている。
  
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