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2,372 バイト追加 、 2023年8月16日 (水) 03:01
→‎話題まとめ: 鈴鹿御前と立烏帽子について一部誤解を招く表現がなされていたので最新の鈴鹿峠研究の反映を含めて加筆・修正しておきました。同時に各セクションの区切りも適切に変更しています。
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== 話題まとめ ==
 
== 話題まとめ ==
; 正体について
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; 史実における正体
: 文献によって、天女・盗賊・天の魔焰とさまざまに伝えられる。
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: 鈴鹿御前とは伝承上の女神、天女であり鈴鹿姫、鈴鹿大明神、鈴鹿権現、鈴鹿神女などとも称される。一方では、鈴鹿山の盗賊・立烏帽子と鈴鹿御前は本来は別人物である。
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: しかし鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した御伽草子や、近世東北地方の語り物文芸である奥浄瑠璃の世界観では両者に混同・同一視された形跡がみられる。
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:; 天女
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:; 天女・鈴鹿御前
:: 天女としての起源は伊勢神宮に奉仕する斎宮(斎王)に求められる。かつて斎王群行は倉歴道(油日越え)を通ったが、仁和2年(886年)には阿須波道(鈴鹿越え)という新道を通ることとされた。平安京の野宮を出発した斎王群行は近江国の国府、甲賀、垂水と伊勢国の鈴鹿、壱志の川の傍に設置された頓宮で各1泊し、そこで祓を行いながら6日目に伊勢神宮の斎宮へと入る。このとき鈴鹿の地に伝説的斎王である倭姫命を祀ったのが鈴鹿社とされ、次第に鈴鹿山の'''女神・鈴鹿姫'''として崇敬されていく。
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:: 鈴鹿御前の起源は山岳信仰にある。古来より鈴鹿峠や峠の東に位置する三子山(鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽)の付近を指して「鈴鹿山」と呼称され、鈴鹿川など豊かな水に恵まれていたことから巫覡の徒(修験山伏・陰陽師・巫女)が祓えを行う聖地であった。そうした背景から鈴鹿山が神格化されて峠神としての'''鈴鹿姫'''祭祀がはじまる。
:: 時期こそ不明だが鈴鹿峠の東側に位置する三子山(鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽)にはそれぞれ瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫が祀られていたようで、火災により鈴鹿頓宮古宮へと遷座された。その後も火災の度に遷座を繰り返したため倭姫命を祀る鈴鹿社と4柱で1社となり、永仁2年(1294年)に坂上田村麻呂など5柱を加えて現在地に遷座されたのが坂下宿の片山神社である。阿須波道は東海道として整備されたため、往来する旅人から東海道の守護神として信仰を集めた片山神社は'''鈴鹿明神(鈴鹿権現)'''と呼ばれた。
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:: 転機となったのは伊勢神宮に奉仕する斎宮(斎王)の存在である。斎王群行は大津京時代の東海道である倉歴道(油日越え)を経由して伊勢神宮へと向かったが、平安京遷都に際して計画された阿須波道(鈴鹿越え)が仁和2年(886年)に開通すると鈴鹿峠を経由することとされた。平安京の野宮を出発した斎王群行は近江国の国府、甲賀、垂水と伊勢国の鈴鹿、壱志の川の傍に設置された頓宮で各1泊し、そこで祓を行いながら6日目には伊勢神宮の斎宮へと入る。このとき鈴鹿頓宮に伝説的斎王である'''倭姫命'''が祀られたことで「鈴鹿姫=倭姫命」として同一視されていく。また鈴鹿峠は東海道が経由することで交通の要衝となり、鈴鹿姫は往来する旅人から塞の神(岐の神)として厚く信仰されていく。
:: また鈴鹿姫が祀られるより以前の鈴鹿峠では塞の神(岐の神)信仰もあったようで、鈴鹿峠の鏡岩は愛宕権現出現の地として祭祀が行われ、京と丹波の境を守護する愛宕山の勝軍地蔵菩薩同様に鏡岩を斎庭(磐庭)として将軍地蔵にみたてた田村将軍が祀られたことで田村堂が建てられた。こちらも東海道の守護神として信仰を集めたため田村明神と呼ばれるようになる。鈴鹿明神と田村明神は夫婦神として信仰され、田村堂は明治40年(1907年)に片山神社に合祀されている。
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:: 時期こそ不明だが、古くから鈴鹿峠の東側に位置する三子山(鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽)にはそれぞれ瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫が祀られていたようで、火災により鈴鹿頓宮古宮へと遷座された。その後も火災の度に遷座を繰り返したため倭姫命を祀る鈴鹿社と4柱で1社となり、永仁2年(1294年)に[[坂上田村麻呂]]など5柱を加えて現在地に遷座されたのが坂下宿の氏神'''鈴鹿明神(現在の片山神社)'''である。
:: 現在の片山神社の由緒では、[[坂上田村麻呂]]が立烏帽子討伐を命じられたものの夫婦となり、二人が亡くなった後に鈴鹿峠の里の人々が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、田村麻呂を田村堂に祀ったとしている。
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::: 鈴鹿明神と並んで信仰された鈴鹿峠の鏡岩(鏡石)では磐座として愛宕権現出現の所として祭祀が行われ、京と丹波の境を守護する愛宕山の勝軍地蔵菩薩同様に、鈴鹿峠の鏡岩を斎庭(磐庭)として将軍塚(将軍地蔵)にみたて田村将軍が祀られたことで田村堂が建てられた。東海道の守護神として信仰を集めた田村堂は田村明神と呼ばれ、鈴鹿明神と一対の夫婦神として信仰されていく。田村堂は明治40年(1907年)に片山神社に合祀されている。
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:: 都でも崇敬された鈴鹿明神は、京都祇園祭の山車「鈴鹿山」では伊勢国鈴鹿山で道行く人々を苦しめた悪鬼を退治したという'''鈴鹿権現(瀬織津姫神)'''を、金の烏帽子をかぶり、手に大長刀を持つ女人の姿であらわしている。
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:: 現在の片山神社の由緒では、坂上田村麻呂が立烏帽子討伐を命じられたものの夫婦となり、二人が亡くなった後に鈴鹿峠の里の人々が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、田村麻呂を田村堂に祀ったとしている。これは室町時代頃に成立した御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』など創作に影響を受けたことで広まった縁起であると考えられている。
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:; 盗賊
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:; 女盗賊・立烏帽子
:: 平安時代末期の『宝物集』の一節に「奈良坂の金礫や'''鈴鹿山の立烏帽子'''という盗賊が処刑された」とあるのが盗賊として最古の記録である。鎌倉時代初期の『保元物語』では「伊賀国住人山田小三郎是行の祖父・行秀が'''盗賊・立烏帽子'''を捕縛した」とある。『宝物集』『保元物語』をそのまま歴史的事実とまで断言できないが、延応元年7月26日付の御成敗式目追加法では鈴鹿山と大江山(大枝山)を名指しして近辺の地頭が盗賊を鎮圧することと定めているため、鈴鹿峠と老ノ坂峠には鎌倉幕府が対策に乗り出すほど盗賊が多発していたようである。
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:: 平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集『宝物集』の一節に「奈良坂の金礫や鈴鹿山の'''立烏帽子'''という盗賊が処刑された」とあり、これが盗賊・立烏帽子に関する最古の文献である。続けて鎌倉時代初期の承久の乱(1221年)前後に成立したとみられる『保元物語』では「伊賀国住人山田小三郎是行の祖父・行秀が盗賊・立烏帽子を捕縛した」とある。
:: 少し時代が下ると『古今著聞集』に検非違使別当藤原隆房が強盗を捕縛したという説話が掲載されいる。隆房は強盗の正体が若く見目麗しい女官であったため'''鈴香山の女盗人'''の言い伝えを思い返した。この鈴香山(鈴鹿山)の女盗人の名前が立烏帽子であるとは明言されていないが、『古今著聞集』が成立した建長6年(1254年)の平安京では鈴鹿山に女盗賊がいたとの言い伝えが知られていことを証明する。さらに『弘長元年公卿勅使記』では「'''盗賊・立烏帽子'''が崇敬した神社の女神が鈴鹿姫である」と記された。こちらは立烏帽子が女盗賊であったと明言していないが、盗賊・立烏帽子は前述した鈴鹿山の女神である鈴鹿姫を信仰していたとあり、立烏帽子と鈴鹿姫の混同が進んでいる。
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:: 『宝物集』『保元物語』の記述をそのまま歴史的事実として断言することはできないが、延応元年7月26日(ユリウス暦1239年8月26日)付の『御成敗式目追加法』では鈴鹿山と大江山(大枝山)を名指しして近辺の地頭が盗賊を鎮圧することと定めているため、鈴鹿峠と老ノ坂峠には鎌倉幕府が対策に乗り出すほどの盗賊行為が多発していたようである。
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::: 『御成敗式目追加法』は後世に重大な影響を与えており、世間に鈴鹿峠と老ノ坂峠には盗賊が跳梁跋扈していたとの共通認知を与えたことで、立烏帽子伝説だけではなく[[酒呑童子]]伝説の成立にも繋がっていく。
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:: 建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』には検非違使別当藤原隆房が強盗を捕縛したという説話が掲載されいる。隆房は強盗の正体が若く見目麗しい女官であったため鈴香山の女盗人の言い伝えを思い返した。この鈴香山(鈴鹿山)の女盗人の名前が立烏帽子であるとは明言されていない。しかし『古今著聞集』が成立した建長6年(1254年)の平安京の知識人の間で鈴鹿山には女盗賊がいたとの言い伝えが知られていことを証明する。
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:: 建長6年(1254年)成立の『弘長元年公卿勅使記』では「盗賊・立烏帽子が崇敬した神社の女神が鈴鹿姫である」と記された。立烏帽子が女盗賊であったことこそ明言していないものの、盗賊・立烏帽子が鈴鹿山の女神である鈴鹿姫を信仰していたとある。
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:: 治承3年(1179年)頃から建長6年(1254年)までの約80年の間に鈴鹿山の盗賊・立烏帽子は女盗賊であり、鈴鹿姫を崇敬していたとされる下地が完成していたことが受け取れる。こうした背景から両者は鈴鹿明神と田村明神を介して御伽草子の世界観で混同・同一視されていくことになる。
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:; 天の魔焰
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:; 天の魔焰・立烏帽子
 
:: 南北朝時代から室町時代かけて軍記物が盛んに創出された。特に『太平記』巻三十二「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」では坂上田村麻呂から[[源頼光]]への宝剣継承譚が語られており「源家相伝の鬼切の剣は田村麻呂が'''鈴鹿御前'''と剣合わせした時に用いた」とある。鈴鹿峠の地域伝承に登場する両者の出会いは当然の帰結であった。
 
:: 南北朝時代から室町時代かけて軍記物が盛んに創出された。特に『太平記』巻三十二「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」では坂上田村麻呂から[[源頼光]]への宝剣継承譚が語られており「源家相伝の鬼切の剣は田村麻呂が'''鈴鹿御前'''と剣合わせした時に用いた」とある。鈴鹿峠の地域伝承に登場する両者の出会いは当然の帰結であった。
 
:: この頃には御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』(以下『田村の草子』)ないし『田村の草子』の原型となる物語が成立していたようで、室町時代の鈴鹿山の様子が記録されている『耕雲紀行』では「'''日本を煩わせた鈴鹿姫'''を田村丸が討伐したが、その時に身に付けていた立烏帽子を投げたのが石となり、麓に社を建てて巫女が祀る」と天の魔焰として語られている。
 
:: この頃には御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』(以下『田村の草子』)ないし『田村の草子』の原型となる物語が成立していたようで、室町時代の鈴鹿山の様子が記録されている『耕雲紀行』では「'''日本を煩わせた鈴鹿姫'''を田村丸が討伐したが、その時に身に付けていた立烏帽子を投げたのが石となり、麓に社を建てて巫女が祀る」と天の魔焰として語られている。
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