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*家光の姉・初姫の誕生時期は慶長7年(1602年)7月というのが通説だが、実際は一年後の慶長8年7月だった可能性があり、その場合家光の誕生時期とされる慶長9年(1604年)7月とのインターバルは一年となる。理論的には可能ではあるが、当時の医療環境を考慮すると難易度が高く、正妻・江以外で秀忠に近い立場の女性として春日局に白羽の矢が立ったのではないか<ref group="注">しかし、その場合春日局最後の実子とされる稲葉正利の生年が慶長8年(1603年)とされている為、生月によっては初姫と家光以上に困難、あるいはそもそも不可能であった可能性が高い。</ref>。
 
*家光の姉・初姫の誕生時期は慶長7年(1602年)7月というのが通説だが、実際は一年後の慶長8年7月だった可能性があり、その場合家光の誕生時期とされる慶長9年(1604年)7月とのインターバルは一年となる。理論的には可能ではあるが、当時の医療環境を考慮すると難易度が高く、正妻・江以外で秀忠に近い立場の女性として春日局に白羽の矢が立ったのではないか<ref group="注">しかし、その場合春日局最後の実子とされる稲葉正利の生年が慶長8年(1603年)とされている為、生月によっては初姫と家光以上に困難、あるいはそもそも不可能であった可能性が高い。</ref>。
 
*幼少期、病弱であった家光が疱瘡を患った際、治癒の願掛けとして自身は以降一切の薬断ちをしたと伝えられる。最晩年、自らが病に倒れた際も治療を頑なに拒み、家光自身が服薬させても感涙にむせびつつ秘かに袖下へ吐き戻していたという。主君という立場はあれど、ここまでの献身…を超えて献命できたのは血を分けた実子故なのではないか。
 
*幼少期、病弱であった家光が疱瘡を患った際、治癒の願掛けとして自身は以降一切の薬断ちをしたと伝えられる。最晩年、自らが病に倒れた際も治療を頑なに拒み、家光自身が服薬させても感涙にむせびつつ秘かに袖下へ吐き戻していたという。主君という立場はあれど、ここまでの献身…を超えて献命できたのは血を分けた実子故なのではないか。
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*また、春日局が陰謀家であるとされる理由付けとして「優秀だった忠長ではなく自分が乳母を務めた家光を次期将軍にするように家康に働きかけた」というものがあるが、これに対して「実の息子である家光を強く贔屓しての行動ではないか」という陰謀論じみた論拠を与えている。
 
:いずれも定説を覆すレベルの論拠ではないが、『FGO』を含めたフィクションを楽しむ上での補助的な情報として心に留めるのも有りではあろう。
 
:いずれも定説を覆すレベルの論拠ではないが、『FGO』を含めたフィクションを楽しむ上での補助的な情報として心に留めるのも有りではあろう。
  
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