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;貴族に裏切られたヴラド三世
 
;貴族に裏切られたヴラド三世
 
:自国の貴族に対して容赦のないヴラド三世だが、そこには「貴族によって肉親を殺された」ことによる背景・影響が存在したのかもしれない。<br />彼の父ヴラド二世および兄のミルチャは、ワラキアの地方貴族によって暗殺されたとされる。当時ハンガリーの摂政だったフニャディ・ヤーノシュとヴラド二世は対立していたため彼によって殺されたという説も存在するが、ヴラド三世がヤノーシュに敵討をした話はない。だが父と兄を殺したとされる地方貴族には復讐を行ったことから、実際に手を下したのはやはりワラキア貴族であったと思われる。元々ワラキアは貴族の力が強く、彼らによって君主が変えられることも度々だった。だがそうだとしても自分の父と兄を殺した(もしくは見殺しにした)ワラキアの貴族たちはヴラド三世にとって裏切り者に違いはなかっただろう。ヴラド三世が国内貴族に対して苛烈なまでの粛清を行った背景に、こういった出来事が影響していた可能性は否定できない。
 
:自国の貴族に対して容赦のないヴラド三世だが、そこには「貴族によって肉親を殺された」ことによる背景・影響が存在したのかもしれない。<br />彼の父ヴラド二世および兄のミルチャは、ワラキアの地方貴族によって暗殺されたとされる。当時ハンガリーの摂政だったフニャディ・ヤーノシュとヴラド二世は対立していたため彼によって殺されたという説も存在するが、ヴラド三世がヤノーシュに敵討をした話はない。だが父と兄を殺したとされる地方貴族には復讐を行ったことから、実際に手を下したのはやはりワラキア貴族であったと思われる。元々ワラキアは貴族の力が強く、彼らによって君主が変えられることも度々だった。だがそうだとしても自分の父と兄を殺した(もしくは見殺しにした)ワラキアの貴族たちはヴラド三世にとって裏切り者に違いはなかっただろう。ヴラド三世が国内貴族に対して苛烈なまでの粛清を行った背景に、こういった出来事が影響していた可能性は否定できない。
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;幼少期を過ごしたトルコ
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:ヴラド三世を語る上で、オスマントルコとの因縁は切っても切り離せないものであり、その始まりは彼の幼少期にまで遡る。<br />1444年、ヴァルナの戦いにてバルカン半島諸侯連合軍であるヴァルナ十字軍がオスマン帝国に敗北。連合軍の一員であったワラキア公はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、ワラキア公の子息であるヴラド三世は弟ラドゥ(美男公)とともにオスマン帝国の人質にされた。ヴラド三世が11歳の頃である。<br />人質としてデヴシルメ(強制徴用の意味。イスラム教に改宗させて教育・訓練を行うこと)となったヴラド三世はそれから数年間、オスマン流の教育を受けると同時に、トルコ圏内の文化・規律などを知ることとなる。ワラキア国内では知る由もなかった事柄も少なくなく、現在ではヴラド三世の代名詞とも言える「串刺し刑」もその一つ、元々はトルコ圏で用いられていた刑罰であった。
    
;12年間の幽閉生活
 
;12年間の幽閉生活
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