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;日本一有名な英雄
 
;日本一有名な英雄
:日本において、文句なしで知名度ナンバーワンの英霊。<br>これまで信長が登場する小説、漫画、ゲーム、映画やドラマのタイトル合計数は'''100'''をとっくに超えており、新撰組や源義経でさえ足元にも及ばない。<br>信長は現在でも増殖を続けており、最近の有名所では「島津豊久や那須与一と組み、聖杯戦争顔負けの大戦争を繰り広げる'''ドリフターな信長'''」、「タイムスリップしてきたサルと夫婦漫才をする'''乙女な信長'''」、「黄泉の国から舞い戻り、ホントに魔王になった'''BASARAな信長'''」、「[[ルーラー|ジャンヌ・ダルク]]や曹操と共演する'''無双な信長'''」、「右腕がガトリング銃に変化する'''ミリタリー娘な信長'''」、「本能寺の変から脱出し、世界征服に乗り出す'''金太郎な信長'''」等々、留まる所を知らない。
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:日本において、文句なしで知名度ナンバーワンの英霊。<br>これまで信長が登場する小説、漫画、ゲーム、映画やドラマのタイトル合計数は'''100'''をとっくに超えており、新撰組や源義経でさえ足元にも及ばない。<br>信長は現在でも増殖を続けており、最近の有名所では「島津豊久や那須与一と組み、聖杯戦争顔負けの大戦争を繰り広げる'''ドリフターな信長'''」、「タイムスリップしてきたサルと夫婦漫才をする'''乙女な信長'''」、「黄泉の国から舞い戻り、ホントに魔王になった'''BASARAな信長'''」、「[[ルーラー|ジャンヌ・ダルク]]や曹操と共演する'''無双な信長'''」、「右腕がガトリング銃に変化する'''ミリタリー娘な信長'''」、「秀吉や光秀、[[ルーラー|ジャンヌ]]と共に2つの星を股にかけて戦う'''巨大ロボットな信長'''」、「本能寺の変から脱出し、世界征服に乗り出す'''金太郎な信長'''」等々、留まる所を知らない。
    
;「第六天魔王」の由来
 
;「第六天魔王」の由来
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:近年の歴史研究では「三国志」の英雄・曹操と非常に似ているとして、比較される事が多い。両者には「天下統一の野心があった」「貴賎を問わず能力のある者を登用した」「逆らう者には情け容赦が無い」「文化・文芸に深く通じていた」「最高権力者を後ろ盾にした」等々、多数の共通点がある。唯一違うのは、曹操は最高権力者である皇帝を(一応)盛り立てていたのに対し、信長は室町幕府の将軍を追放して幕府を滅ぼした事である。なお、2人には「天下統一を目前にして致命的な失敗を犯した」という共通点もある(曹操は赤壁の戦いで大敗、信長は本能寺の変で討たれた)。
 
:近年の歴史研究では「三国志」の英雄・曹操と非常に似ているとして、比較される事が多い。両者には「天下統一の野心があった」「貴賎を問わず能力のある者を登用した」「逆らう者には情け容赦が無い」「文化・文芸に深く通じていた」「最高権力者を後ろ盾にした」等々、多数の共通点がある。唯一違うのは、曹操は最高権力者である皇帝を(一応)盛り立てていたのに対し、信長は室町幕府の将軍を追放して幕府を滅ぼした事である。なお、2人には「天下統一を目前にして致命的な失敗を犯した」という共通点もある(曹操は赤壁の戦いで大敗、信長は本能寺の変で討たれた)。
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;ホトトギスと天下餅
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:三英傑の性格と業績を表すキーワードとして広く知られている川柳と風刺唄。いずれも江戸後期(文政~天保期)に創作されたものだが、誰が創作したかは謎のままである。<br>「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」は信長の短気と気難しさを表し、「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」は秀吉の旺盛な好奇心と人たらしと呼ばれた性格を表し、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」は家康の忍耐強さを表しているとされている。<br>なお、3人が有名すぎてあまり知られていないが、秀吉の家臣であった加藤清正にちなんだ「鳴け聞こう 我が領分の ホトトギス」というものも存在し、これは清正の家臣としての性分を表していると言われている。<br>一方の天下餅の風刺唄「織田が突き、羽柴がこねし天下餅、座ったまま食うは徳川」は、元々は信長と秀吉の業績を家康が掠め取ったという意味の風刺唄だったが、現在では天下取りの様子を簡単に表したものと解釈されている。
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;本能寺の変
 
;本能寺の変
:戦国最大のミステリーと呼ばれ、現在も大きな論争が巻き起こっている大事件。史実のみを抜き出すと、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都・本能寺に逗留していた織田信長を家臣の明智光秀が軍勢を率いて襲撃し、信長を自刃に追い込んだ。この時、光秀が発した「'''敵は本能寺にあり!'''」という言葉は歴史に残る名言の1つに数えられている。<br>この事件の最大の謎は、光秀が信長に反旗を翻す具体的な動機が不明瞭な点である。事件直後から現在まで唱えられた説は大別すると光秀の単独犯説と黒幕説に二分されるが、いずれも決め手にはなっていない。
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:戦国最大のミステリーと呼ばれ、現在も大きな論争が巻き起こっている大事件。史実のみを抜き出すと、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都・本能寺に逗留していた織田信長を家臣の明智光秀が軍勢を率いて襲撃し、信長を自刃に追い込んだ。この時、光秀が発した「'''敵は本能寺にあり!'''」という言葉は歴史に残る名言の1つに数えられている。<br>この事件の最大の謎は、光秀が信長に反旗を翻す具体的な動機が不明な事である。事件直後から現在まで唱えられた説は大別すると光秀の単独犯説と黒幕説に二分されるが、いずれも決め手にはなっていない。
    
== リンク ==
 
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