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:三代将軍・徳川家光の治世の時に発生した、大阪の陣以降では初の大規模騒乱。一般には天草・島原藩によるキリシタン弾圧に反発した人々の騒乱という認識が広まっているが、'''実際には藩主の暴政への不満が根本的な原因であり、キリシタンの反攻は二の次に過ぎなかった'''。
 
:三代将軍・徳川家光の治世の時に発生した、大阪の陣以降では初の大規模騒乱。一般には天草・島原藩によるキリシタン弾圧に反発した人々の騒乱という認識が広まっているが、'''実際には藩主の暴政への不満が根本的な原因であり、キリシタンの反攻は二の次に過ぎなかった'''。
 
:当時は古参の大名であっても落ち度があれば容赦無く改易する3代将軍家光の厳しい国政や、大名の反乱を防ぐための藩への強制的な出費政策(参勤交代の義務化が代表例)に恐れ苦しむ藩が非常に多く、この時島原藩を治めていた松倉勝家はそれらへの対策として藩内の農民に過剰すぎる年貢の取り立てと残虐極まりない罰則を敷いて無理矢理収入を増やそうとしていた。
 
:当時は古参の大名であっても落ち度があれば容赦無く改易する3代将軍家光の厳しい国政や、大名の反乱を防ぐための藩への強制的な出費政策(参勤交代の義務化が代表例)に恐れ苦しむ藩が非常に多く、この時島原藩を治めていた松倉勝家はそれらへの対策として藩内の農民に過剰すぎる年貢の取り立てと残虐極まりない罰則を敷いて無理矢理収入を増やそうとしていた。
::『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月(旧暦)、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。<br>こうした暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。
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:『黒田長興一世之記』という記録によれば、1637年10月(旧暦)、年貢が支払えない庄屋の身重の妻が役人に捕らわれ、裸で水牢に入れられた。庄屋では年貢の支払いに知恵を絞るも払えるものはもう何もなく、6日後、妻は出産した子供と共に命を落とした。<br>こうした暴虐に耐えかねた人々は同年10月25日に代官を殺害して蜂起、これが島原の乱の始まりである。
 
:幕府の政策によって他藩が幕府の許可が下りない内は軍を出動させられなかった事などが追い風となり、当初は一揆軍側が優勢であったものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくると次第に追い詰められていき、最終的に島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。
 
:幕府の政策によって他藩が幕府の許可が下りない内は軍を出動させられなかった事などが追い風となり、当初は一揆軍側が優勢であったものの、九州諸藩の討伐軍が島原に進軍してくると次第に追い詰められていき、最終的に島原半島南部にあった原城に立て篭もる。その数は3万7千人にも及び、更に各地から奪った鉄砲などで武装するなど原城の防備を固めた。
 
:幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで原城を攻めようとするも、総大将に任じられた板倉重昌には討伐軍を統率するだけの力量が無く、ひたすら総攻撃を続けるも攻城は全て失敗。遂には重昌も戦死するという最悪の結果を迎える<ref>これは信綱の援軍派遣決定を受けて責任を取らされる事を恐れた重昌が功を焦り、自ら最前線に出て指揮を執りながら総攻撃を仕掛けたため。家光の側近であった柳生但馬守宗矩はこの結果を予期し、重昌の派遣を撤回するよう諌言したという</ref>。
 
:幕府はまず九州諸藩の討伐軍のみで原城を攻めようとするも、総大将に任じられた板倉重昌には討伐軍を統率するだけの力量が無く、ひたすら総攻撃を続けるも攻城は全て失敗。遂には重昌も戦死するという最悪の結果を迎える<ref>これは信綱の援軍派遣決定を受けて責任を取らされる事を恐れた重昌が功を焦り、自ら最前線に出て指揮を執りながら総攻撃を仕掛けたため。家光の側近であった柳生但馬守宗矩はこの結果を予期し、重昌の派遣を撤回するよう諌言したという</ref>。
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