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**この遺跡は1960年代に建設が始まったアスワン・ハイ・ダムの影響で水没の危機に晒されたが、1964年から1968年の間にユネスコの手で現在の場所に移築された。また、この移築を契機に世界遺産制度が成立する事となる。
 
**この遺跡は1960年代に建設が始まったアスワン・ハイ・ダムの影響で水没の危機に晒されたが、1964年から1968年の間にユネスコの手で現在の場所に移築された。また、この移築を契機に世界遺産制度が成立する事となる。
 
**建築マニアであるとともに自分大好きな王でもあったようで、神殿とともに自身を模した像および巨像を数多く建築させている。長いエジプト史を通しても、これほど盛大に自らを誇った形跡を残したファラオは他にいない。
 
**建築マニアであるとともに自分大好きな王でもあったようで、神殿とともに自身を模した像および巨像を数多く建築させている。長いエジプト史を通しても、これほど盛大に自らを誇った形跡を残したファラオは他にいない。
*記録によれば体格は大柄で力も強く、彼しか引けない専用に作られた弓もあったという。
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*記録によれば体格は大柄で力も強く、彼しか引けないような専用の強弓もあったという。
 
*1881年にミイラが発見され、身長183cmもの大柄な体格であった事が明らかになっている。現在はエジプト考古学博物館に収められており、英霊の中でもその遺体を直接目にする事ができる唯一の存在である。
 
*1881年にミイラが発見され、身長183cmもの大柄な体格であった事が明らかになっている。現在はエジプト考古学博物館に収められており、英霊の中でもその遺体を直接目にする事ができる唯一の存在である。
 
**20世紀後半に防腐処置を行う為にフランスへ渡った事があるが、その時には儀仗兵が捧げ銃を行う国王への礼節をもって迎えられた。また、出国に際してはパスポートが発行された上に職業欄には「ファラオ」と記入されており、死してもなお絶大な権威を保ち畏敬を集めていることを伺わせた。
 
**20世紀後半に防腐処置を行う為にフランスへ渡った事があるが、その時には儀仗兵が捧げ銃を行う国王への礼節をもって迎えられた。また、出国に際してはパスポートが発行された上に職業欄には「ファラオ」と記入されており、死してもなお絶大な権威を保ち畏敬を集めていることを伺わせた。
 
*史実においては、神殿などの碑文の改ざんにより父王の業績を一部奪おうとしていたりする。父親との共同統治の際に作らせた神殿では父親の名前の前に「今は亡き」などと後から掘らせ、すべてオジマンディアスが作らせたように改竄していた。ファラオが歴史に名を残そうとする行為として珍しいものではなかったものの、前述の建造物と合わせて彼が並々ならぬ自己顕示欲を持っていたことは疑いようがない。
 
*史実においては、神殿などの碑文の改ざんにより父王の業績を一部奪おうとしていたりする。父親との共同統治の際に作らせた神殿では父親の名前の前に「今は亡き」などと後から掘らせ、すべてオジマンディアスが作らせたように改竄していた。ファラオが歴史に名を残そうとする行為として珍しいものではなかったものの、前述の建造物と合わせて彼が並々ならぬ自己顕示欲を持っていたことは疑いようがない。
*アムルを巡ってヒッタイトのムワタリ2世と戦ったカデシュの戦いは、史上初の軍事記録に残された戦争であり、成文化された世界初の国際平和条約が結ばれたこと有名である。オジマンディアスは戦争での大勝を国内で宣伝し、神殿の壁画などに記したが、これは誇張であり、エジプトは多数の死傷者を出しながら領土を獲得できず、アムルは再びヒッタイトの属国となったと考えられている。
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*アムルを巡ってヒッタイトのムワタリ2世と戦ったカデシュの戦いは、史上初の軍事記録に残された戦争であり、成文化された世界初の国際平和条約が結ばれたこと有名である。オジマンディアスは戦争での大勝を国内で宣伝し、神殿の壁画などに記したが、これは誇張であり、実際にはエジプトはヒッタイトと痛み分けに終わって互いに多くの死傷者や被害を出した末に領土を獲得できず、結局アムルは再びヒッタイトの属国となったと考えられている。
 
**なお、この戦争におけるオジマンディアスの活躍は勝敗と同様に大幅に誇張して喧伝され、彼が一人で戦車を駆り、矢の一撃で敵の隊を全滅させたかの如き図などが神々を交えて壁画に彫り込まれたりもした。そして当時のエジプトの人々はこういった壁画を大真面目に歴史として記録してしまい、後世において歴史論争が大変ややこしいことになったという経緯がある。
 
**なお、この戦争におけるオジマンディアスの活躍は勝敗と同様に大幅に誇張して喧伝され、彼が一人で戦車を駆り、矢の一撃で敵の隊を全滅させたかの如き図などが神々を交えて壁画に彫り込まれたりもした。そして当時のエジプトの人々はこういった壁画を大真面目に歴史として記録してしまい、後世において歴史論争が大変ややこしいことになったという経緯がある。
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**とは言え、この後のエジプトの繁栄ぶりなどから見て取れるように彼自身が優れた王であった事はほぼ間違いない事であり、そんな彼の恐ろしいまでの健在ぶりなどには周辺諸国も恐れを為して進撃を躊躇する程であった模様。だが彼が寿命を迎えるとエジプトはアッシリアを始めとした周辺諸国などから急襲を受け、急速に勢力を弱めるようになった。
 
;出エジプト記
 
;出エジプト記
 
*旧約聖書の出エジプト記においてのエジプトのファラオとも言われている。自国に居住していたイスラエルの民に圧政を敷いたとされ、彼らの神にアブを全土に発生、疫病の発生、腫れ物と炎症を引き起こす、雹を全土で降らし農業を破壊する、イナゴを大発生させる、エジプト全土を暗闇にする等の散々な目に合わされている。
 
*旧約聖書の出エジプト記においてのエジプトのファラオとも言われている。自国に居住していたイスラエルの民に圧政を敷いたとされ、彼らの神にアブを全土に発生、疫病の発生、腫れ物と炎症を引き起こす、雹を全土で降らし農業を破壊する、イナゴを大発生させる、エジプト全土を暗闇にする等の散々な目に合わされている。
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