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;新選組諸説
 
;新選組諸説
:現在伝わる新選組についての多くのイメージは、後世の小説・講談や様々なフィクションに影響されて形成されたものである。新選組の貴重な史料として有名なのは、『新選組始末記』と言う'''小説'''や、二番隊隊長・永倉新八の'''老後の思い出話'''を編纂した『新選組顛末記』等であり、そのため武勇伝や事件の顛末、人物の立場や性格・能力に至るまで、かなりの嘘・誇張・勘違いが含まれている。例えば、かの有名な局中法度も現在では『新選組始末記』の創作である事が明らかになっている。
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:現在伝わる新選組についての多くのイメージは、後世の小説・講談や様々なフィクションに影響されて形成されたものである。新選組の貴重な史料として有名なのは、子母沢寛の著した'''小説'''である『新選組始末記』や、二番隊隊長・永倉新八の'''老後の思い出話'''を編纂した『新選組顛末記』等であり、そのため武勇伝や事件の顛末、人物の立場や性格・能力に至るまで、かなりの嘘・誇張・勘違いが含まれている。例えば、かの有名な局中法度も現在では『新選組始末記』の創作である事が明らかになっている。
 
:宝具「誠の旗」の「発動者の心象によって召喚される隊士の面子や性格が多少変化する」と言う特性も、こういった事情を踏まえてのものであろう。だがこの宝具にあるような説明にあるような「土方歳三は苛烈な性格である」「近藤勇はお固く規律に煩い」などと言う印象ですら、現在の説では比較的否定的に見られているほどである。
 
:宝具「誠の旗」の「発動者の心象によって召喚される隊士の面子や性格が多少変化する」と言う特性も、こういった事情を踏まえてのものであろう。だがこの宝具にあるような説明にあるような「土方歳三は苛烈な性格である」「近藤勇はお固く規律に煩い」などと言う印象ですら、現在の説では比較的否定的に見られているほどである。
 
:全てを語り尽くせばこのページだけでは到底足りないため、桜セイバー・沖田総司にとって特に関係性の深い物を何点か下記に記す。
 
:全てを語り尽くせばこのページだけでは到底足りないため、桜セイバー・沖田総司にとって特に関係性の深い物を何点か下記に記す。
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:沖田の愛刀については諸説あるが、現在では『加州清光』と『大和守安定』がそれであったと言う説が強い。桜セイバーの愛刀となっている『乞食清光』は『加州清光』の愛称であり、この点では史実に沿っている。
 
:沖田の愛刀については諸説あるが、現在では『加州清光』と『大和守安定』がそれであったと言う説が強い。桜セイバーの愛刀となっている『乞食清光』は『加州清光』の愛称であり、この点では史実に沿っている。
 
:問題は『誓いの羽織』の効果で出現する『菊一文字則宗』。この銘を持つ刀は存在せず、完全に創作である。「一文字則宗に菊紋を入れたものを菊一文字と称する」とも言われているが、実際に菊紋の入った一文字則宗は見つかっていない。また、『一文字則宗』は幕末当時でも重要文化財クラスの超貴重品であり、新選組幹部と言えど到底手が出るレベルの刀ではない。沖田がこれを持っていたと言うのはまず創作であろう。
 
:問題は『誓いの羽織』の効果で出現する『菊一文字則宗』。この銘を持つ刀は存在せず、完全に創作である。「一文字則宗に菊紋を入れたものを菊一文字と称する」とも言われているが、実際に菊紋の入った一文字則宗は見つかっていない。また、『一文字則宗』は幕末当時でも重要文化財クラスの超貴重品であり、新選組幹部と言えど到底手が出るレベルの刀ではない。沖田がこれを持っていたと言うのはまず創作であろう。
:また、刀は「高ければ強い」と言う訳ではない。『一文字則宗』は当時主流であった刀とは大幅に様式が異なるため、扱い方も異なる。『乞食清光』から急に宝具効果で『菊一文字則宗』に変化したら、大層使い難いのではないだろうか。
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:そこまでなら「伝承が宝具になった」と言う事で問題ないのだが、そもそも刀は「高ければ強い」と言う訳ではない。『一文字則宗』は当時主流であった刀とは大幅に様式が異なるため、扱い方も大きく異なる。『乞食清光』から急に宝具効果で『菊一文字則宗』に変化したら、大層使い難いのではないだろうか。
    
;ダンダラ羽織
 
;ダンダラ羽織
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*『新選組始末記』では、沖田は池田屋での戦闘中に肺結核で喀血して倒れ、以後は新撰組の主な活動から離脱したという。しかし、沖田の離脱は『近藤勇書簡』『島田魁日記』では記述されておらず、翌月の禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動していた記録があり、その後も活動していることが確認されている。<br>1866年頃、幕府御典医・松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。1867年には周囲が認識し得るほど発病していたらしく、多くの診断記録が残されており、10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。<br>現在、池田屋での喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、これには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が池田屋で昏倒したことが記されている。<br>昏倒の原因は肺病の発症か、蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症等の一時的な体調不良かは不明だが、原因が肺病だったとしても少なくとも近藤や永倉等周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられる。
 
*『新選組始末記』では、沖田は池田屋での戦闘中に肺結核で喀血して倒れ、以後は新撰組の主な活動から離脱したという。しかし、沖田の離脱は『近藤勇書簡』『島田魁日記』では記述されておらず、翌月の禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動していた記録があり、その後も活動していることが確認されている。<br>1866年頃、幕府御典医・松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。1867年には周囲が認識し得るほど発病していたらしく、多くの診断記録が残されており、10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。<br>現在、池田屋での喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、これには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が池田屋で昏倒したことが記されている。<br>昏倒の原因は肺病の発症か、蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症等の一時的な体調不良かは不明だが、原因が肺病だったとしても少なくとも近藤や永倉等周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられる。
 
*甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るく強気な沖田がこの時だけは声を上げて泣いたという。また近藤の戦死について周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らず、死の間際まで「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。<br>そして近藤の死の2ヶ月後、沖田は近藤の死を知らぬ儘その生涯を閉じた。<br>辞世の句は「''動かねば 闇にへだつや 花と水''」。
 
*甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るく強気な沖田がこの時だけは声を上げて泣いたという。また近藤の戦死について周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らず、死の間際まで「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。<br>そして近藤の死の2ヶ月後、沖田は近藤の死を知らぬ儘その生涯を閉じた。<br>辞世の句は「''動かねば 闇にへだつや 花と水''」。
*死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたともいわれるが、この話は子母沢寛による創作であるといわれる。
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*死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたともいわれるが、この話は『新選組始末記』による創作であるといわれる。
    
;謎の美剣士
 
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