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**残されている自伝によれば、この研鑽の最中にシーア派の派閥であるイスマーイール派の教義に感化されて、イスマーイール派を国教としていたファティマ朝のカリフに忠誠を誓ったと言われている。
 
**残されている自伝によれば、この研鑽の最中にシーア派の派閥であるイスマーイール派の教義に感化されて、イスマーイール派を国教としていたファティマ朝のカリフに忠誠を誓ったと言われている。
 
*1094年にファティマ朝の第8代カリフが死去すると、その後継を巡ってイスマーイール派は2つに分裂し、廃嫡された長男ニザールを支持した人々はニザール派と呼ばれ、ハサンはニザール派の指導的な地位に着く。
 
*1094年にファティマ朝の第8代カリフが死去すると、その後継を巡ってイスマーイール派は2つに分裂し、廃嫡された長男ニザールを支持した人々はニザール派と呼ばれ、ハサンはニザール派の指導的な地位に着く。
*指導者となってからは、布教活動で信者や拠点を確保する一方で暗殺者を放ってセルジューク朝などの敵対者と対抗した事が、「山の翁」と呼ばれる由縁となった。
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*指導者となってからは、布教活動で信者や拠点を確保する一方で、暗殺部隊を組織。彼自身や後継のニザール派指導者はセルジューク朝、ザンギー朝、十字軍などの敵対者に対してこれを放ち、抵抗した。
 
*コーランの教えに基づく禁欲的な生活を送る事を尊守しており、禁を破った息子を処刑したとも言われる。
 
*コーランの教えに基づく禁欲的な生活を送る事を尊守しており、禁を破った息子を処刑したとも言われる。
 
*1124年、拠点としていたアラムート城で死去。
 
*1124年、拠点としていたアラムート城で死去。
 
**アラムート城はその後、1256年にモンゴル帝国の攻勢の前に降伏し、ニザール派の教義が記された多数の文書をモンゴル帝国が接収している。この中にハサンの自伝も含まれており、それによればアラムート城を拠点としてからは自室から出る事は少なく、ニザール派の教義に関する著作活動と教団内外の政策活動に没頭したという。
 
**アラムート城はその後、1256年にモンゴル帝国の攻勢の前に降伏し、ニザール派の教義が記された多数の文書をモンゴル帝国が接収している。この中にハサンの自伝も含まれており、それによればアラムート城を拠点としてからは自室から出る事は少なく、ニザール派の教義に関する著作活動と教団内外の政策活動に没頭したという。
**また、イスラム世界の古典歴史書「完史」によれば数学、幾何学、'''魔術'''に精通した人物とされる…………つまり、原典通りのハサンは「暗殺者」ではなく「魔術師」のクラスが一番妥当になる………
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**また、イスラム世界の古典歴史書「完史」によれば数学、幾何学、'''魔術'''に精通した人物とされる…………つまり、原典通りのハサンは「暗殺者」ではなく「魔術師」のクラスが一番妥当になるかもしれない。
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*この史実とは別に、マルコ・ポーロが東方から「山の老人」伝説を持ち帰り、近世のヨーロッパにおいてハサンら少数教派の指導者と同一視され、ハサンのイメージは大きく揺らぐことになる。
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**「山の老人」伝説は次のようなものである―――山中に秘密の庭園を築いた老人がいた。彼は下界から若者を連れてきて、秘伝の麻薬と美女で心行くまで楽しませる。そのうえで老人は、若者に「再び楽園の歓びを味わいたければ、この使命を達成せよ」と指示し、欲望に燃える若者を暗殺や陰謀に駆り立てた―――。
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**この伝説に麻薬が登場していたことで山の老人=ハサン、麻薬に魅了された若者=ハシーシ=アサシン=暗殺者の図式が流布されてしまったのだが、実際のところ「ハシーシ」は麻薬中毒者に限らず罵倒語として使われていたようで、ハサンが自分や部下に麻薬を使ったという史料もない。
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