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:高丸、その異名。説話・御伽草子などの物語や日本各地の本地譚では悪事の高丸、安倍高丸、近江の高丸、明石の高丸などともされる架空の人物。
 
:高丸、その異名。説話・御伽草子などの物語や日本各地の本地譚では悪事の高丸、安倍高丸、近江の高丸、明石の高丸などともされる架空の人物。
 
:達谷西光寺の縁起に登場する悪路王、赤頭、高丸を指して奥州三鬼ともされる。
 
:達谷西光寺の縁起に登場する悪路王、赤頭、高丸を指して奥州三鬼ともされる。
:『元享釈書』(1322年)の「清水寺延鎮伝」に、[[坂上田村麻呂]]が駿河国の清見関(静岡県清水市付近)まで攻め上がってきた奥州の逆賊高丸を追撃して神楽岡で射殺したと記されている。
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:高丸について最古の記録は鎌倉時代末期の『元亨釈書』(1322年)の「清水寺延鎮伝」で、[[坂上田村麻呂]]が駿河国の清見関(現在の静岡県清水市付近)まで攻め上がってきた奥州の逆賊・'''高丸'''を追撃して神楽岡で射殺したと記されている。
:古くは『元享釈書』より以前に、諏訪大社の縁起に高丸の名前が記されている。『諏訪信重解状』(1249年)の「当社五月会御射山濫觴事」では諏訪大明神の利生譚として、五月会と御射山祭の由緒で田村丸による高丸討征が語られた。
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:実は『元享釈書』より以前に書かれた『諏訪信重解状』(1249年)の「当社五月会御射山濫觴事」では諏訪大明神の利生譚として、五月会と御射山祭の由緒として田村丸による高丸討征が記されているが、『諏訪信重解状』は室町時代以降に創作された偽書とみられていることから、確定している最古の記録が『元享釈書』となる。
:『元享釈書』以前の清水寺縁起には高丸が登場していないことから、『諏訪信重解状』を元ネタにして『元享釈書』にも高丸を登場させたと考えられている。
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:南北朝時代の諏訪大社では『神道集』(1352年~1361年)の巻4「信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事」で御射山祭(秋山祭)の由来として、稲瀬五郎田村丸が鞍馬寺の毘沙門天から授かった堅貪という剣と諏訪明神や住吉明神の加護で'''悪事の高丸'''を討伐したとある。
:諏訪大社では『神道集』(1352年~1361年)の巻4「信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事」で御射山祭(秋山祭)の由来として、稲瀬五郎田村丸が鞍馬寺の毘沙門天から授かった堅貪という剣と諏訪明神や住吉明神の加護で悪事の高丸を討伐したとしている。
   
:稲瀬五郎田村丸とは、坂上田村麻呂の事績が反映された御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』の登場人物である。諏訪大社が祭事の由緒に御伽草子の物語を逆輸入する形で採り入れたと考えられている。
 
:稲瀬五郎田村丸とは、坂上田村麻呂の事績が反映された御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』の登場人物である。諏訪大社が祭事の由緒に御伽草子の物語を逆輸入する形で採り入れたと考えられている。
:室町時代成立の『田村の草子』の中では「近江の高丸」として登場し、江戸時代成立の『田村三代記』でも「近江国蒲生が原の明石の高丸」としている。いずれも田村丸将軍と[[鈴鹿御前]]夫婦に討伐される構造は共通している。
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:室町時代成立の『田村の草子』の中では'''近江の高丸'''として登場し、江戸時代成立の『田村三代記』でも近江国蒲生が原の'''明石の高丸'''としている。いずれも田村丸将軍と[[鈴鹿御前]]夫婦に討伐される構造は共通している。
    
;悪路王との関係
 
;悪路王との関係
:明治時代に活躍した民俗学者・伊能嘉矩が『吾妻鏡』の悪路王は「大高丸 → 悪事の高丸 → 悪路王」と転訛しているとの説を著書に記したことから、[[大嶽丸]]=悪事の高丸=悪路王という伊能説が広まったものの、実のところ定説ではない。
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:明治時代の民俗学者・伊能嘉矩が『吾妻鏡』の悪路王は「大高丸 → 悪事の高丸 → 悪路王」と転訛しているとの論説を著書で展開したことから「[[大嶽丸]] = 悪事の高丸 = 悪路王」という伊能説が広まった。しかし実のところ伊能説は定説ではない。
:悪路王伝説は奥州藤原氏が栄華を極めた平泉から、大将軍(坂上田村麿公)の本地を毘沙門天とする田村信仰発祥の達成谷西光寺の縁起をベースに東北各地へと発信された。平泉は京都に影響されつつも、それと比肩しうる独自性を持つ優れた地方文化を発展させていった。そうした歴史的背景から[[酒呑童子]]伝説など京都の物語にも影響され、鎌倉時代末期には平泉独自の物語として酒呑童子伝説に比肩する悪路王伝説が独自に創出された。
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:悪路王伝説は奥州藤原氏が栄華を極めた時代の平泉で創出され、大将軍(坂上田村麿公)の本地を毘沙門天とする田村信仰発祥の達成谷西光寺の縁起をベースに東北各地へと発信された。平泉は京都に影響されつつも、それと比肩しうる独自性を持つ優れた地方文化を発展させていった。そうした歴史的背景から[[酒呑童子]]伝説など京都の物語にも影響され、鎌倉時代末期には平泉独自の物語として酒呑童子伝説に比肩する悪路王伝説が独自に創出された。
 
:悪路王という名前の初見は『吾妻鏡』(1300年頃)が最古であり、諏訪大社の縁起との関連性もないことなどから、近年の書籍や論文では悪事の高丸、悪路王、大嶽丸は別人物として扱われている。
 
:悪路王という名前の初見は『吾妻鏡』(1300年頃)が最古であり、諏訪大社の縁起との関連性もないことなどから、近年の書籍や論文では悪事の高丸、悪路王、大嶽丸は別人物として扱われている。
 
:Fateシリーズでの鈴鹿御前の出典は『鈴鹿の草子』『田村の草子』『田村三代記』としているが、これら原典でも高丸は田村丸が討伐するが、悪路王は田村丸の父が討伐するため、悪事の高丸と悪路王は別人物である。
 
:Fateシリーズでの鈴鹿御前の出典は『鈴鹿の草子』『田村の草子』『田村三代記』としているが、これら原典でも高丸は田村丸が討伐するが、悪路王は田村丸の父が討伐するため、悪事の高丸と悪路王は別人物である。
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