差分
→メモ
*中国史において「最強の武将は誰か?」という問いに[[呂布奉先|呂布]]や関羽と共に必ず名前が挙がる人物。なお、呂布とは「狂戦士」のクラスという共通点がある。
*中国史において「最強の武将は誰か?」という問いに[[呂布奉先|呂布]]や関羽と共に必ず名前が挙がる人物。なお、呂布とは「狂戦士」のクラスという共通点がある。
**楚漢戦争の彭城の戦いは、寝込みを急襲したような形になったとはいえ、3万の軍勢で56万の漢軍を殲滅、そのうち20万を殺害…という冗談としか思えないような戦果を上げている。
**楚漢戦争の彭城の戦いは、寝込みを急襲したような形になったとはいえ、3万の軍勢で56万の漢軍を殲滅、そのうち20万を殺害…という冗談としか思えないような戦果を上げている。
**彭城の戦いでは楚軍の本拠地を占領して油断した漢軍56万を楚軍3万で強襲し、城内の漢軍は10万人が討ち取られ、残りの10万人は敗走中に睢水の川に追い込まれ、溺死したと伝えられる。大量の漢軍兵士の死体で川が塞き止められたとも、真っ赤に染まったとも伝えられており、劉邦も戦死一歩手前にまで追い詰められた。後世の後漢末期の「合肥の戦い」<ref group = "注">呉の孫権が率いる10万の軍勢を、魏の将軍で呂布の元部下の張僚が僅か7000で破った戦い。この戦いで張僚の武名は天下に轟き、呉では「張僚が来た!」と言うだけで泣く子供も黙りこんだとされる。</ref>や五胡十六国時代の「淝水の戦い」<ref group = "注">西暦383年に華北の前秦と江南の東晋が激突した戦い。前秦軍120万に対し、東晋軍は8万で対峙。しかし、雑多な民族の集まりで統制が取れていなかった前秦軍は作戦ミスで混乱状態に陥り、そこに突撃してきた東晋軍によって潰滅してしまう。前秦は参加兵力の実に80%以上を失い、数年後に滅亡する。</ref>や日本戦国時代の「桶狭間の戦い」と共に、寡兵で大軍を討ち破った代表的な戦いだと伝えられている。
**彭城の戦いでは楚軍の本拠地を占領して油断した漢軍56万を楚軍3万で強襲し、城内の漢軍は10万人が討ち取られ、残りの10万人は敗走中に睢水の川に追い込まれ、溺死したと伝えられる。大量の漢軍兵士の死体で川が塞き止められたとも、真っ赤に染まったとも伝えられており、劉邦も戦死一歩手前にまで追い詰められた。後世の後漢末期の「合肥の戦い」<ref group = "注">呉の孫権が率いる10万の軍勢を、魏の将軍で呂布の元部下の張遼が僅か7000で破った戦い。この戦いで張遼の武名は天下に轟き、呉では「張遼が来た!」と言うだけで泣く子供も黙りこんだとされる。</ref>や五胡十六国時代の「淝水の戦い」<ref group = "注">西暦383年に華北の前秦と江南の東晋が激突した戦い。前秦軍120万に対し、東晋軍は8万で対峙。しかし、雑多な民族の集まりで統制が取れていなかった前秦軍は作戦ミスで混乱状態に陥り、そこに突撃してきた東晋軍によって潰滅してしまう。前秦は参加兵力の実に80%以上を失い、数年後に滅亡する。</ref>や日本戦国時代の「桶狭間の戦い」と共に、寡兵で大軍を討ち破った代表的な戦いだと伝えられている。
*項羽は非常に直截的な性格の持ち主だった。これは彼を英雄と慕う楚兵にとっての大きな魅力だったが、一方でそれに伴う数々の政治的失敗があり、結果的に劉邦に敗北する。
*項羽は非常に直截的な性格の持ち主だった。これは彼を英雄と慕う楚兵にとっての大きな魅力だったが、一方でそれに伴う数々の政治的失敗があり、結果的に劉邦に敗北する。
**特に『史記』を編纂した司馬遷は項羽を「自らの失敗を認めないのは、荒唐無稽にすぎる」と手厳しい。しかし一方で、史記において項羽を王者として扱っており、その行跡に関する描写も豊かである<ref group = "注">家臣たちの記録である「列伝」や諸侯の記録である「世家」ではなく、中華の支配者の記録である「本紀」に項羽を位置づけている。秦末の動乱期に王を称した人物はほとんど列伝か世家で、項羽のみ別格の扱いとなっている。そもそも、項羽というのは性+字(あざな)で姓名ではない。中国では目上以外の人間が、当該人物を名で呼ぶのは無礼とされ、その代わりに字で呼んでいた。従って、本来なら項籍と書くべきところを、項羽と書くのは尊敬の現われであり、史書において実名を書かない待遇を受けているのは、皇帝を除いてはほんの僅かである。ちなみに、劉邦の正室で中国三大悪女の一人とされた呂雉も「本紀」に記載されている。</ref>。「史記」は司馬遷が亡父の遺志を継ぎ、個人として編んだ史書であるため、劉邦(漢王朝の創始者)と敵対した項羽に対しても、好意的とさえいえる視点で書かれている(無論欠点についても項羽・劉邦ともにしっかりと書かれている)。
**特に『史記』を編纂した司馬遷は項羽を「自らの失敗を認めないのは、荒唐無稽にすぎる」と手厳しい。しかし一方で、史記において項羽を王者として扱っており、その行跡に関する描写も豊かである<ref group = "注">家臣たちの記録である「列伝」や諸侯の記録である「世家」ではなく、中華の支配者の記録である「本紀」に項羽を位置づけている。秦末の動乱期に王を称した人物はほとんど列伝か世家で、項羽のみ別格の扱いとなっている。そもそも、項羽というのは性+字(あざな)で姓名ではない。中国では目上以外の人間が、当該人物を名で呼ぶのは無礼とされ、その代わりに字で呼んでいた。従って、本来なら項籍と書くべきところを、項羽と書くのは尊敬の現われであり、史書において実名を書かない待遇を受けているのは、皇帝を除いてはほんの僅かである。ちなみに、劉邦の正室で中国三大悪女の一人とされた呂雉も「本紀」に記載されている。</ref>。「史記」は司馬遷が亡父の遺志を継ぎ、個人として編んだ史書であるため、劉邦(漢王朝の創始者)と敵対した項羽に対しても、好意的とさえいえる視点で書かれている(無論欠点についても項羽・劉邦ともにしっかりと書かれている)。