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:; 天女
 
:; 天女
:: 天女としての起源は伊勢神宮に奉仕する斎宮(斎王)に求められる。かつて斎王群行は倉歴道(油日越え)を通ったが、仁和2年(886年)に阿須波道(鈴鹿越え)と名付けられた新道を通るよう変更された。平安京の野宮を出発した斎王群行は近江国の国府、甲賀、垂水と伊勢国の鈴鹿、壱志の川の傍に設置された頓宮で各1泊し、そこで祓を行いながら6日目に伊勢神宮の斎宮へと入る。このとき鈴鹿の地に伝説的斎王である倭姫命を祀ったのが鈴鹿社であり、'''鈴鹿姫'''として崇敬された鈴鹿山の女神と考えられている。
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:: 天女としての起源は伊勢神宮に奉仕する斎宮(斎王)に求められる。かつて斎王群行は倉歴道(油日越え)を通ったが、仁和2年(886年)には阿須波道(鈴鹿越え)という新道を通ることとされた。平安京の野宮を出発した斎王群行は近江国の国府、甲賀、垂水と伊勢国の鈴鹿、壱志の川の傍に設置された頓宮で各1泊し、そこで祓を行いながら6日目に伊勢神宮の斎宮へと入る。このとき鈴鹿の地に伝説的斎王である倭姫命を祀ったのが鈴鹿社とされ、次第に鈴鹿山の'''女神・鈴鹿姫'''として崇敬されていく。
:: 時期こそ不明だが、鈴鹿峠の東側に位置する三子山(鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽)にはそれぞれ瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫が祀られていたようで、火災により鈴鹿頓宮古宮へと遷座された。その後も火災の度に遷座を繰り返していたため、倭姫命を祀る鈴鹿社と4柱で1社となり、永仁2年(1294年)に坂上田村麻呂など5柱を加えて現在地に遷座されたのが坂下宿の片山神社である。阿須波道は東海道として整備され、旅人の増加とともに鈴鹿姫は東海道の守護神として信仰を集めて'''鈴鹿明神(鈴鹿権現)'''と呼ばれるようになる。
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:: 時期こそ不明だが鈴鹿峠の東側に位置する三子山(鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽)にはそれぞれ瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫が祀られていたようで、火災により鈴鹿頓宮古宮へと遷座された。その後も火災の度に遷座を繰り返したため倭姫命を祀る鈴鹿社と4柱で1社となり、永仁2年(1294年)に坂上田村麻呂など5柱を加えて現在地に遷座されたのが坂下宿の片山神社である。阿須波道は東海道として整備されたため、往来する旅人から東海道の守護神として信仰を集めた片山神社は'''鈴鹿明神(鈴鹿権現)'''と呼ばれた。
:: また鈴鹿姫が祀られるより以前の鈴鹿峠では塞の神(岐の神)信仰があったようで、鈴鹿峠の頂きにある鏡岩は愛宕権現出現の地とされ、京と丹波の境を守護する愛宕山の勝軍地蔵菩薩同様に、鏡岩を斎庭(磐庭)として田村将軍を将軍地蔵にみたて祀られた。付近に田村社が祀られ、東海道の守護神として信仰を集めて'''田村明神'''と呼ばれるようになる。田村堂は明治40年(1907年)に片山神社に合祀されている。
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:: また鈴鹿姫が祀られるより以前の鈴鹿峠では塞の神(岐の神)信仰もあったようで、鈴鹿峠の鏡岩は愛宕権現出現の地として祭祀が行われ、京と丹波の境を守護する愛宕山の勝軍地蔵菩薩同様に鏡岩を斎庭(磐庭)として将軍地蔵にみたてた田村将軍が祀られたことで田村堂が建てられた。こちらも東海道の守護神として信仰を集めたため田村明神と呼ばれるようになる。鈴鹿明神と田村明神は夫婦神として信仰され、田村堂は明治40年(1907年)に片山神社に合祀されている。
:: 現在の片山神社の由緒では、坂上田村麻呂が立烏帽子討伐を命じられたものの夫婦となり、二人が亡くなった後に鈴鹿峠の里の人々が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、田村麻呂を田村堂に祀ったとしている。
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:: 現在の片山神社の由緒では、[[坂上田村麻呂]]が立烏帽子討伐を命じられたものの夫婦となり、二人が亡くなった後に鈴鹿峠の里の人々が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、田村麻呂を田村堂に祀ったとしている。
    
:; 盗賊
 
:; 盗賊
:: 盗賊としては、平安時代末期の『宝物集』に記された「奈良坂の金礫や'''鈴鹿山の立烏帽子'''という盗賊が処刑された」との一節が最古の記録である。鎌倉時代初期の『保元物語』では「伊賀国住人山田小三郎是行の祖父・行秀が'''盗賊・立烏帽子'''を捕縛した」とある。『宝物集』『保元物語』の一節をそのまま歴史的事実とは断言できないが、延応元年7月26日付の御成敗式目追加法では鈴鹿山と大江山(大枝山)を名指しして近辺の地頭が盗賊を鎮圧することと定めているため、鈴鹿峠と老ノ坂峠には鎌倉幕府が対策するほど盗賊が多発していた。
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:: 平安時代末期の『宝物集』の一節に「奈良坂の金礫や'''鈴鹿山の立烏帽子'''という盗賊が処刑された」とあるのが盗賊として最古の記録である。鎌倉時代初期の『保元物語』では「伊賀国住人山田小三郎是行の祖父・行秀が'''盗賊・立烏帽子'''を捕縛した」とある。『宝物集』『保元物語』をそのまま歴史的事実とまで断言できないが、延応元年7月26日付の御成敗式目追加法では鈴鹿山と大江山(大枝山)を名指しして近辺の地頭が盗賊を鎮圧することと定めているため、鈴鹿峠と老ノ坂峠には鎌倉幕府が対策に乗り出すほど盗賊が多発していたようである。
:: 少し時代が下ると『古今著聞集』に検非違使別当藤原隆房が強盗を捕縛したという説話が掲載されいる。隆房は強盗の正体が若く見目麗しい女官であったため'''鈴香山の女盗人'''の言い伝えを思い返した。この鈴香山(=鈴鹿山)の女盗人の名前が立烏帽子であるとは明言されていないが、『古今著聞集』が成立した建長6年(1254年)の平安京では鈴鹿山に女盗賊がいたとの言い伝えが知られていたのだろう。さらに『弘長元年公卿勅使記』では「'''盗賊・立烏帽子'''が崇敬した神社の女神が鈴鹿姫である」と記された。こちらは立烏帽子が女盗賊であったと明言していないが、盗賊・立烏帽子は前述した鈴鹿山の女神である鈴鹿姫を信仰していたと立烏帽子と鈴鹿御前の混同がみられる。
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:: 少し時代が下ると『古今著聞集』に検非違使別当藤原隆房が強盗を捕縛したという説話が掲載されいる。隆房は強盗の正体が若く見目麗しい女官であったため'''鈴香山の女盗人'''の言い伝えを思い返した。この鈴香山(鈴鹿山)の女盗人の名前が立烏帽子であるとは明言されていないが、『古今著聞集』が成立した建長6年(1254年)の平安京では鈴鹿山に女盗賊がいたとの言い伝えが知られていことを証明する。さらに『弘長元年公卿勅使記』では「'''盗賊・立烏帽子'''が崇敬した神社の女神が鈴鹿姫である」と記された。こちらは立烏帽子が女盗賊であったと明言していないが、盗賊・立烏帽子は前述した鈴鹿山の女神である鈴鹿姫を信仰していたとあり、立烏帽子と鈴鹿姫の混同が進んでいる。
:: 南北朝時代から室町時代かけてに軍記物が創出された。特に『太平記』巻三十二「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」では坂上田村麻呂から[[源頼光]]への宝剣継承譚が語られて「源家相伝の鬼切の剣は田村麻呂が'''鈴鹿御前'''と剣合わせした時に用いた」とあり、田村麻呂が討伐する対象として立烏帽子と鈴鹿姫が融合した鈴鹿御前が登場している。
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:: この頃には御伽草子『田村の草子』ないし原型となる物語が成立していたようで、室町時代の鈴鹿山の様子が記録されている『耕雲紀行』では「'''日本を煩わせた鈴鹿姫'''を田村丸が討伐したが、その時に身に付けていた立烏帽子を投げたのが石となり、麓に社を建てて巫女が祀る」と天の魔焰として語られている。
      
:; 天の魔焰
 
:; 天の魔焰
:: 物語に登場する立烏帽子/鈴鹿御前は、文明18年(1486年)の『壬生家文書』「坂上田村麻呂伝勘文」に御伽草子『鈴鹿の草子』同様の概要が記されているため、1486年以前には成立していたことが判明している。おそらく世阿弥作とされる謡曲『田村』が田村麻呂が鈴鹿山の悪魔(鬼神)を討伐する物語であったため、そこに天女・鈴鹿姫や盗賊・立烏帽子の言い伝えを引用して『立烏帽子』『鈴鹿の草子』など御伽草子が創出されたのだろう。例えば『鈴鹿の草子』では、田村丸俊宗(田村麻呂)が大和国奈良坂山の金つぶてを打つ化生の霊山を討伐して将軍に任命されるが、これは『宝物集』の「奈良坂の金礫や鈴鹿山の立烏帽子という盗賊が処刑された」から立烏帽子と共に引用されている。
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:: 南北朝時代から室町時代かけて軍記物が盛んに創出された。特に『太平記』巻三十二「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」では坂上田村麻呂から[[源頼光]]への宝剣継承譚が語られており「源家相伝の鬼切の剣は田村麻呂が'''鈴鹿御前'''と剣合わせした時に用いた」とある。鈴鹿峠の地域伝承に登場する両者の出会いは当然の帰結であった。
:: 『鈴鹿の草子(田村の草子)』は立烏帽子/鈴鹿御前の立場によって二種類に分類される。ひとつは「鈴鹿系」と呼ばれ、日本を魔国にするために鈴鹿山へと降臨した'''第六天魔王の娘・立烏帽子'''だが、自分を討伐しに来た田村将軍との戦いを経て改心、結婚して共に日本の鬼退治をする古い形態を残した古写本系統の物語。ひとつは「田村系」と呼ばれ、日本を魔国にしようと企んだ鈴鹿山の大嶽丸を討伐する田村将軍に助力をするために天下った'''天女・鈴鹿御前'''が、田村将軍と結婚して共に日本の鬼退治をする「鈴鹿系」から改編された絵巻・絵本・版本など流布本系統の物語。「鈴鹿系」で第六天魔王の娘とされたのは庶民にまで中世日本記が流布していた時代背景がある。
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:: この頃には御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』(以下『田村の草子』)ないし『田村の草子』の原型となる物語が成立していたようで、室町時代の鈴鹿山の様子が記録されている『耕雲紀行』では「'''日本を煩わせた鈴鹿姫'''を田村丸が討伐したが、その時に身に付けていた立烏帽子を投げたのが石となり、麓に社を建てて巫女が祀る」と天の魔焰として語られている。
:: 江戸時代になると仙台藩を中心にして盲目の法師によって語られた奥浄瑠璃『田村三代記』が成立する。これは『鈴鹿の草子(田村の草子)』の舞台を東北地方に置き換えたものである。東国の武家では第六天魔王信仰が盛んであったためか'''第六天魔王の娘'''・立烏帽子とされている。奥浄瑠璃は口頭のみで後世に伝えられる口承文学のため正本は存在せず、現在使われている写本は書き写したもののため内容に異同が多い。そのひとつが'''第四天魔王の娘・立烏帽子'''とする写本である。『田村三代記』の元となった『鈴鹿の草子(田村の草子)』では第六天魔王であり、仏教には第四天魔王という概念が存在しないことから口承過程での誤りとされる。
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:: この物語に登場する立烏帽子/鈴鹿御前は、文明18年(1486年)の『壬生家文書』「坂上田村麻呂伝勘文」に『田村の草子』同様の概要が記されているため、1486年以前には成立していたことが判明している。田村麻呂が鈴鹿山の悪魔(鬼神)を討伐して清水寺を建立する物語筋の世阿弥作とされる能『田村』をベースとして、天女・鈴鹿姫や盗賊・立烏帽子の言い伝えを組み合わせたものが『立烏帽子』『鈴鹿の草子』など御伽草子の原型だろう。例えば『田村の草子』では、大和国奈良坂山の金つぶてを打つ化生の霊山を討伐した田村丸俊宗が将軍に任命されるが、『宝物集』の「奈良坂の金礫や鈴鹿山の立烏帽子という盗賊が処刑された」との一節から立烏帽子と共に引用されている。
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:: 『田村の草子』は立烏帽子/鈴鹿御前の立場によって物語の系統が二種類に分類される。ひとつは「鈴鹿系」と呼ばれ、日本を魔国にするために鈴鹿山へと降臨した'''第六天魔王の娘・立烏帽子'''だが、自分を討伐しに来た田村将軍との戦いを経て改心、結婚して共に日本の鬼退治をする古い形態を残した古写本系統の物語。ひとつは「田村系」と呼ばれ、日本を魔国にしようと企んだ鈴鹿山の大嶽丸を討伐に向かう田村将軍に助力をするために天下った'''天女・鈴鹿御前'''が、田村将軍と結婚して共に日本の鬼退治をする「鈴鹿系」を改編した絵巻・絵本・版本など流布本系統の物語。また「鈴鹿系」では第六天魔王の娘とされているが、時代背景としては庶民に広く流布していた中世日本記の第六天魔王譚が想起される。
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:: 江戸時代になると仙台藩を中心にして盲目の法師によって語られた奥浄瑠璃『田村三代記』が成立する。これは『田村の草子』の舞台を東北地方に置き換えたものであるが、東国の武家では第六天魔王信仰が盛んであったためか'''第六天魔王の娘・立烏帽子'''とされている。奥浄瑠璃は口頭のみで後世に伝えられる口承文学のため正本は存在せず、現在使われている写本は上演されたものを文字起こししたもののため、その内容には異同が多い。そのひとつが'''第四天魔王の娘・立烏帽子'''とする写本の存在である。『田村三代記』の元となった『田村の草子』では第六天魔王の娘であり、仏教には第四天魔王という概念が存在しないことから口承文学の性質から偶然の誤りであるとされる。
    
: 『Fate/Grand Order material Ⅴ』には「この鈴鹿御前は第四天魔王の娘である」とあり、『Fate/EXTRA CCC FoxTail』『Fate/Grand Order』でも第四天魔王の娘としていることから、上記のうち奥浄瑠璃『田村三代記』で第四天魔王と書かれた写本をベースにしているものと思われる。
 
: 『Fate/Grand Order material Ⅴ』には「この鈴鹿御前は第四天魔王の娘である」とあり、『Fate/EXTRA CCC FoxTail』『Fate/Grand Order』でも第四天魔王の娘としていることから、上記のうち奥浄瑠璃『田村三代記』で第四天魔王と書かれた写本をベースにしているものと思われる。
    
; 中世日本紀
 
; 中世日本紀
: 鈴鹿御前が第六天魔王の娘とされた時代背景として日本中世に広く流布していた中世神話のうち、第六天魔王譚の影響が指摘される。
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: 鈴鹿御前が第六天魔王の娘とされた時代背景として日本中世に広く流布していた中世神話のうち、第六天魔王譚の影響が指摘される。中世神話とは、『古事記』『日本書紀』『風土記』などの日本神話に基づきながら、本地垂迹説などに則りつつ仏教の諸天諸仏と同一視して作られた数々の神話群である。学術用語で中世日本紀と呼称される。
: 中世神話とは、古事記や日本書紀など日本神話に基づきながら、本地垂迹説などに則りつつ仏教の諸天諸仏を同一視して作られた数々の神話群である。学術用語で中世日本紀と呼称される。
   
: 『沙石集』巻第一の第一条「太神宮御事」では、弘長4年(1264年)に伊勢神宮を参拝した僧・無住道暁が伊勢神宮の神職に聞いた話として、以下のように記している。
 
: 『沙石集』巻第一の第一条「太神宮御事」では、弘長4年(1264年)に伊勢神宮を参拝した僧・無住道暁が伊勢神宮の神職に聞いた話として、以下のように記している。
:: 「天地開闢の頃、大海の底に大日の印文があった。天照大神が鉾で探り当てると滴の露が落ちて日本が出来た。その様子を見た第六天魔王は「この滴が国となって、仏法流布し、人倫生死を出づべき相がある」と仏国土となり魔界の障りになることを危惧して日本を滅ぼそうとした。これに対し天照大神は「我は三宝(仏・法・僧)の名も言わない、自らにも近づけないから帰り給え」と約束して退けた」という。この約束があるため外向きには三法を疎ましく思っているが、内心は深く三宝を守っている。日本の仏法は伊勢神宮によって守護されている。
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:: 「天地開闢の頃、大海の底に大日如来の印文があった。天照大神が鉾で探り当てると鉾先の印文の滴の露が落ちて日本が出来た。その様子を遥か遠くから見た第六天魔王は「この滴が国となって、仏法流布し、人倫生死を出づべき相がある」と日本が仏国土となり魔界の障りになることを危惧して滅ぼそうと攻めてきた。これに対し天照大神は「我は三宝(仏・法・僧)の名も言わない、自らにも近づけないから帰り給え」と約束して退けた」という。この第六天魔王との約束があるため伊勢神宮では外向きには三法を疎ましく思っているが、内心は深く三宝を守っている。日本の仏法は伊勢神宮によって守護されている。
: 『沙石集』のこの一節は、伊勢神宮が仏教を避けているのは嫌っているわけではないことを民衆に語る前提で記されている。
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: 『沙石集』のこの一節は仏教の広まりに対し、伊勢神宮としては仏教を避けているのは理由があり、けっして嫌っているわけではないことを民衆に語る前提で記されている。
: その後も第六天魔王譚は幸若舞『百合若大臣』や『平家物語』屋台本「剣巻」にも影響を与える。多くの御伽草子に影響を与えた『太平記』巻十六「日本朝敵事」では、天照大神が仏法を忌避するとの約束に怒りを鎮めた第六天魔王は、天照大神の子孫を日本の主(天皇)とし、日本の主に反乱する者は第六天魔王の一族がこれを懲らしめる事を誓い、その約束の証拠として第六天魔王から貰ったのが神璽(日本中世においては八尺瓊勾玉は印であるとされていた)であるとする。
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: 第六天魔王譚はその後も幸若舞『百合若大臣』や『平家物語』屋台本「剣巻」など多くの中世文芸に影響を与える。特に有名なのが『太平記』巻十六「日本朝敵事」で、天照大神が仏法を忌避する約束に怒りを鎮めた第六天魔王は、天照大神の子孫を日本の主(天皇)とし、もし日本の主に反乱する者が現れれば第六天魔王の一族がこれを懲らしめる事を誓い、その約束の証拠として第六天魔王から賜ったのが神璽であるとする。この神璽は八尺瓊勾玉を指し、日本中世において八尺瓊勾玉は印であるとされていた。
: こうした中世神話が広く流布した時代の中で御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』が創出されたため、中世神話における第六天魔王の娘・鈴鹿御前が坂上田村麻呂と夫婦となり活躍する物語となった。
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: こうした中世神話が広く流布していた時代に創出されたのが御伽草子『田村の草子』であり、第六天魔王の娘・鈴鹿御前として坂上田村麻呂と夫婦となって活躍するのは中世神話の広まりが関係している。
    
; 田村麻呂と悲恋か
 
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