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*中国異聞帯にて登場した急造装甲車「<ruby><rb>多多益善</rb><rp>(</rp><rt>ドゥオドゥオイーシャン</rt><rp>)</rp></ruby>号」は「史記」の「淮陰侯列伝」の逸話に由来する。劉邦が韓信に「私はどれくらいの将か」と尋ねると、韓信は「陛下はせいぜい十万の兵を率いる将です」と答えた。続けて「それなら君はどれくらいか」と尋ねると「多多益善(多ければ多いほどよい)」と答えた、というもの。
 
*中国異聞帯にて登場した急造装甲車「<ruby><rb>多多益善</rb><rp>(</rp><rt>ドゥオドゥオイーシャン</rt><rp>)</rp></ruby>号」は「史記」の「淮陰侯列伝」の逸話に由来する。劉邦が韓信に「私はどれくらいの将か」と尋ねると、韓信は「陛下はせいぜい十万の兵を率いる将です」と答えた。続けて「それなら君はどれくらいか」と尋ねると「多多益善(多ければ多いほどよい)」と答えた、というもの。
 
**ただし、その後に韓信は「'''自分は兵士の将だが、陛下は『将の将』です'''」と答え、劉邦に配慮をしている。この発言を聞いた劉邦は非常に上機嫌になったと伝えられている。
 
**ただし、その後に韓信は「'''自分は兵士の将だが、陛下は『将の将』です'''」と答え、劉邦に配慮をしている。この発言を聞いた劉邦は非常に上機嫌になったと伝えられている。
*「狡兎死して良狗烹られる」という言葉や、項羽からの天下三分の誘いを拒否したことなどから、劉邦の疑心暗鬼による粛清の被害者としてよくあげられるが、実情はまるで異なる。韓信は楚漢戦争中から、劉邦の足元を見て王位を強請る、劉邦の援軍要請を無視(このせいで劉邦は項羽に敗北した)など、たびたび問題行動を起こしていた。そもそも韓信が最初に劉邦に捕縛されることになったのも、指名手配されている'''楚の将軍「鍾離昩」'''を勝手に匿ったことが切っ掛けである。
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**秦末~楚漢戦争の時代には軍を預けた将が、攻め取った地で勝手に王を名乗り独立するという事例が多発しており、韓信の振る舞いは劉邦からすれば謀反人予備軍も同然のことである。ために劉邦は楚漢戦争中から、韓信から将である印綬と兵を奪ったり、韓信の攻め取った斉から、故郷への栄転の名目で領地の少ない楚王へ移すなど、韓信の力を削ぐことに注力していた。
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**つまり韓信の粛清は半ば計画されていたもので、決して劉邦が疑心暗鬼で罪のない家臣を不当に殺したわけではない。フォローすると最初の捕縛で劉邦は、韓信を処刑することはなく淮陰侯への降格で留めており、韓信の処刑は劉邦に断りなく独断で行われた。なのであくまで可能性であるが、劉邦は韓信を警戒していても殺す気まではなかったかもしれない。しかし、韓信は戦後の冷遇の不満から反乱を決意し、陳豨に反乱を唆して劉邦が親征した際に首都長安を制圧する計画を企てたが、計画は事前に発し、蕭何と呂雉によって処刑された。
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**この時、蕭何は韓信を確実に処刑するために「陳豨の反乱もすぐに鎮圧された」との嘘の情報を流して、自身の計画が露見した可能性を疑って警戒する韓信に「病身であることは知っている。御身に疑いを晴らすためにも、祝辞を述べに参内した方が良いだろう」と呼び出して油断を誘っている。韓信も警戒を怠ってはいなかったのだが、蕭何は韓信が劉邦に仕える際に韓信の良くない噂を知って登用を渋る劉邦を幾度となく説得して大将軍に取り立ててくれた経緯があり、韓信にとっては「'''立身出世のきっかけにもなった大恩ある人物'''」だった。そんな蕭何を韓信はこの時も信頼していたため、呆気なく捕まってしまった。
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**歴史書には反乱の討伐から帰還して韓信の死を知らされた劉邦はとても悲しんだと伝えれている……が、韓信の最後の言葉「'''蒯通(かいつう:楚漢戦争中に韓信に仕え、独立して天下を取ることを進めた人物)の勧めに従わなかったことが心残りだ'''」を知ると激高した。蒯通も処刑しようとしたが、堂々かつ理路整然と抗弁(要約すると、「'''乱世の時代に王になる事を望むものは多く、彼ら全員を殺すのか?'''」と反論)したため、劉邦もその言葉の正しさを認めて、助命した。
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**仮に韓信の反乱が成功した場合、漢は一代で崩壊し、天下が再び戦乱の渦中に叩き込まれるのは確実だったので、処刑を決断した呂雉の判断は正しかったと言える。
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**とはいえ、その後の劉邦の功臣に対する粛清ぶりが常軌を逸しているのは確かである。楚漢戦争で武勲のある「彭越」「黥布」は処刑され、幼馴染である「盧綰」や、更には張良・蕭何すらも疑われ、終いには義兄弟であり、項羽に命を狙われた「鴻門の会」の際に身を持って劉邦を庇い救い出した「樊噲(はんかい)」ですら謀反を疑われて捕らえられた(こちらは処置を決断する前に劉邦が病死したため、無罪放免となる)。盧綰は劉邦を信じたが彼が死去し呂雉が実権を握ると匈奴へ逃げ、張良と蕭何はそれぞれの方法で疑いを避ける必要に迫られた。
   
*彼の代名詞とも言える「国士無双」の出典は『史記』淮陰侯列伝。「その国において最も優れ」「並ぶ者のいない」存在である事を指す。現代では麻雀の役名として主に知られるが、その麻雀とサイコロは韓信が発明したという俗説が台湾には存在する。
 
*彼の代名詞とも言える「国士無双」の出典は『史記』淮陰侯列伝。「その国において最も優れ」「並ぶ者のいない」存在である事を指す。現代では麻雀の役名として主に知られるが、その麻雀とサイコロは韓信が発明したという俗説が台湾には存在する。
 
**しかし実際のところ、前者は17世紀後半頃に清王朝で内閣中書を務めた陳魚門が原型を作った、というのが定説となっており、後者は現在主流の「正六面体で対面の合計が7」というスタイルの最古の物が紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘された事が確認されており、むしろ[[セミラミス]]との関わりが深い可能性すらある。
 
**しかし実際のところ、前者は17世紀後半頃に清王朝で内閣中書を務めた陳魚門が原型を作った、というのが定説となっており、後者は現在主流の「正六面体で対面の合計が7」というスタイルの最古の物が紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘された事が確認されており、むしろ[[セミラミス]]との関わりが深い可能性すらある。
*韓信が冷遇されている間、劉邦は北方の騎馬民族匈奴を率いて攻めてきた「冒頓単于」と戦ったが、大敗して毎年貢物を送る条約を結ばされた。歴史マニアの間では、もし韓信が用いられ続けられ冒頓単于と戦っていたら…というifはよく語られる。
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*韓信で最も有名は逸話として「'''韓信の股くぐり'''」がある。これは当時淮陰に住んでいた頃はまともに仕事もせず、とある亭長(最下級の役人)の家に居候をしていたが、韓信は仕事もせず家事手伝いもしなかったため、亭長の家の人から食事を貰えなくなり、当てがなくなった韓信は老婆から食事を何日も恵んでもらう羽目になる。韓信は老婆にいつか恩返しをすると言うが、老婆は「あんたが気の毒だったから恵んだだけ。お礼はいらない」と返答した。その話を聞きつけた町の若者から「お前は、いつも剣を持っているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺せ。できないならば俺の股をくぐれ」と言われ、韓信はそのまま若者の股をくぐったため、町民達から大笑いされてしまい、馬鹿にされた。しかし、これは韓信が「'''感情的になり相手を刺しても人を傷つけて恨みを買ってしまうだけ'''」と冷静に見極めての行動であり、現在では物事の理非を上手く見極めていた故の行動と評されることが多い。「大きな目的を実現するために、小さな恥辱を受けてもがまんして、争わないで受け流すこと」の代表的な故事となっている。
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**ちなみにこの故事には続きがあり、韓信が楚王になった後、食事を恵んでくれた老婆にはいつか恩返しすると約束したとおりに千金を与えて恩を返した。自分を刺せと挑発してきた若者には中尉(警察長官相当の官職)を与え、「あの時のお前のおかげで自分は我慢する事の大切さを学び、今日の成功がある」と感謝の言葉を送った。そして、自分を追い出した亭長の役人には100銭を与え、「一度世話をしたなら最後までやれ」と罵倒したと伝えられている。
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*劉邦軍には別に「韓信」がいた。流石にややこしかったのか、そちらは主に「韓王信」と呼ばれていた。なお韓王信は後に匈奴へと寝返っている。
      
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
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