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**新選組という組織自体が講談や小説などによる後世の創作を元にしたイメージで語られることが多い。土方の「鬼の副長」もその一つだろう。
**新選組という組織自体が講談や小説などによる後世の創作を元にしたイメージで語られることが多い。土方の「鬼の副長」もその一つだろう。
*一方で女好きとしての一面もあり、奉公をしていた十代の頃から新選組として活躍した頃まで女性に関する逸話が絶えずあり、京で遊里の女性などからもらった艶文を長持いっぱいに溜めこんだり<br>'''「なおなお拙義ども報国、有志と目がけ、婦人慕い候事、筆紙に尽くし難し。」'''といった内容の手紙を親類へ書いたりするほどであった<ref group = "注">あえて現代語訳するならば『報国の志士なのでモテてモテて困ってしまう。』と言ったところだろうか。</ref>。
*一方で女好きとしての一面もあり、奉公をしていた十代の頃から新選組として活躍した頃まで女性に関する逸話が絶えずあり、京で遊里の女性などからもらった艶文を長持いっぱいに溜めこんだり<br>'''「なおなお拙義ども報国、有志と目がけ、婦人慕い候事、筆紙に尽くし難し。」'''といった内容の手紙を親類へ書いたりするほどであった<ref group = "注">あえて現代語訳するならば『報国の志士なのでモテてモテて困ってしまう。』と言ったところだろうか。</ref>。
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*沖田と違い霊基再臨しても浅葱色の羽織を着ないが、本人によれば「(羽織は)あるがもう纏う事はない」とのことで、深い事情があることを思わせる。また、絆礼装「誓いの羽織」の絵柄は「洋風の鏡台に軍刀や小銃だけでなく、浅葱色の羽織が立てかけられている」というこれまた意味深なもの。
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*沖田と違い霊基再臨しても浅葱色の羽織を着ないが、本人によれば「(羽織は)あるがもう纏う事はない」とのことで、深い事情があることを思わせる。また、彼の絆礼装「誓いの羽織」の絵柄は「洋風の鏡台に軍刀や小銃だけでなく、浅葱色の羽織が立てかけられている」というこれまた意味深なもの。
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**「誓いの羽織」は沖田総司が同名・同由来の宝具を設定として所持しているが、同じく宝具として所持する「誠の旗」と違って「新選組の隊長サーヴァント全員が持っている」といった類の明言は無い。土方のように個々の事情で袖を通さないケースがある故かと思われるが、宝具として所持しているが使わないのかそもそも使えないのかは不明。土方に関しては前者の可能性が高い。
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**「誓いの羽織」は沖田総司が同名・同由来の宝具を設定として所持しているが、同じく宝具として所持する「誠の旗」と違って「新選組の隊長サーヴァント全員が持っている」といった類の明言は無い。土方のように個々の事情で袖を通さないケースがある故かと思われるが、宝具として所持しているが使わないのかそもそも使えないのかは不明。土方に関しては(持っていると明言された訳ではないが)前者の可能性が高い。
**なお、土方が「誠の旗」を使った場合悪い新選組が召喚されるとのこと。とはいえバーサーカー霊基で持っているのかは現状不明。
**なお、土方が「誠の旗」を使った場合悪い新選組が召喚されるとのこと。とはいえバーサーカー霊基で持っているのかは現状不明。
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**ちなみに史実の土方は隊服である浅葱色の羽織を単純にデザインが悪いと嫌って廃止しており、その理由は羽織を芹沢が制作していたためとされる。土方は羽織を廃止して、隊の芹沢色を一新することを考えていたと言われる他、この羽織に一度も袖を通さなかったとも言われている。
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***なお、第三再臨の土方は新選組がメインの隊服として使っていたとされる「黒衣・黒袴」という衣装になっている。
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***羽織を着ていないメタ的な理由としては、後世に残った箱館戦争時の肖像写真などで世間一般的に洋装のイメージが強い事も挙げられるか。
*愛刀・和泉守兼定は会津兼定11代目(後述の理由で12代目とされることもある)の作。但し、日野の土方歳三記念館に伝わっている現物と、近藤勇の手紙の記述では寸法が違っており、また池田屋討ち入りなどがあった新選組の最盛期には11代目兼定がまだ「和泉守」を受領していなかったこともあって、10(11)代目以前の作も含む複数の兼定を所持していたという説が現在では有力である。なお、この兼定は森長可の「人間無骨」などの作者・美濃兼定2代目よりのちの4代目兼定が芦名氏の招きで会津に移り、以後その地を治める大名家が変わってもお抱えの刀工として定住し続けた家系で、この美濃4代目を会津初代として数えるか否かで末代が11代目となるか12代目となるか史料によってはズレが出る。
*愛刀・和泉守兼定は会津兼定11代目(後述の理由で12代目とされることもある)の作。但し、日野の土方歳三記念館に伝わっている現物と、近藤勇の手紙の記述では寸法が違っており、また池田屋討ち入りなどがあった新選組の最盛期には11代目兼定がまだ「和泉守」を受領していなかったこともあって、10(11)代目以前の作も含む複数の兼定を所持していたという説が現在では有力である。なお、この兼定は森長可の「人間無骨」などの作者・美濃兼定2代目よりのちの4代目兼定が芦名氏の招きで会津に移り、以後その地を治める大名家が変わってもお抱えの刀工として定住し続けた家系で、この美濃4代目を会津初代として数えるか否かで末代が11代目となるか12代目となるか史料によってはズレが出る。
**土方歳三資料館に収められている和泉守兼定は柄巻の糸が擦り切れたものを巻き直す余裕もなかったのか漆で固めて補修してあり、戊辰戦争末期における転戦の激しさを雄弁に物語っている。なお、柄巻の摩耗具合からして土方の刀の握り方は右手と左手の間隔がほぼなく両手共に親指と人差指に力の入る、所謂「クソ握り」<ref group = "注">野球のバットを振るように、刀の重さに任せて叩きつけるには適した握り方だったらしい。</ref>だったと言われ、正しい道場剣術ではないが実践的な我流の剣であったことが窺える。
**土方歳三資料館に収められている和泉守兼定は柄巻の糸が擦り切れたものを巻き直す余裕もなかったのか漆で固めて補修してあり、戊辰戦争末期における転戦の激しさを雄弁に物語っている。なお、柄巻の摩耗具合からして土方の刀の握り方は右手と左手の間隔がほぼなく両手共に親指と人差指に力の入る、所謂「クソ握り」<ref group = "注">野球のバットを振るように、刀の重さに任せて叩きつけるには適した握り方だったらしい。</ref>だったと言われ、正しい道場剣術ではないが実践的な我流の剣であったことが窺える。
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**また、剣術についても隊士たちに「土方には負けずとも勝てる気はしない」と言わしめたらしく、『[[コハエース|ぐだぐだエースRE]]』では勝つために何でもするという生前の若年時の様子が描かれ、自身をボコボコにした沖田相手に一歩も退かず立ち向かっていた。
**また、剣術についても隊士たちに「土方には負けずとも勝てる気はしない」と言わしめたらしく、『[[コハエース|ぐだぐだエースRE]]』では勝つために何でもするという生前の若年時の様子が描かれ、自身をボコボコにした沖田相手に一歩も退かず立ち向かっていた。
*2023年12月には「局中法度」スキルに強化が入り、NPチャージが追加された事で編成の幅が大いに広がった。しかし、同時期に開催されていた『ぐだぐだ超五稜郭』のストーリー内で伊東甲子太郎により捕らえられ、'''電撃を浴びせられた直後'''というタイミングだった事や、「局中法度を強化」という文面から当時はネタにされた。
*2023年12月には「局中法度」スキルに強化が入り、NPチャージが追加された事で編成の幅が大いに広がった。しかし、同時期に開催されていた『ぐだぐだ超五稜郭』のストーリー内で伊東甲子太郎により捕らえられ、'''電撃を浴びせられた直後'''というタイミングだった事や、「局中法度を強化」という文面から当時はネタにされた。
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* 他の隊士と違って唯一ダンダラ模様の羽織の隊服を着ていない。これは土方が洋装のイメージが強いためと考えられる。
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**ちなみに史実の土方は隊服を単純にデザインが悪いと嫌って廃止しており、こちらの逸話も含まれている可能性もある。また、廃止にした理由は隊服は芹沢が制作しており、土方は隊服を廃止して、隊の芹沢色を一新することも考えたとされる。
== 話題まとめ ==
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