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== 話題まとめ ==
 
== 話題まとめ ==
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;第六天魔王譚
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:鈴鹿御前が第六天魔王の娘とされた時代背景として日本中世に広く流布していた中世神話のうち、第六天魔王譚の影響が指摘される。
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:中世神話とは、古事記や日本書紀など日本神話に基づきながら、本地垂迹説などに則りつつ仏教の諸天諸仏を同一視して作られた数々の神話群である。学術用語で中世日本紀と呼称される。
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:『沙石集』巻第一の第一条「太神宮御事」では、弘長4年(1264年)に伊勢神宮を参拝した僧・無住道暁が伊勢神宮の神職に聞いた話として、以下のように記している。
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:「天地開闢の頃、大海の底に大日の印文があった。天照大神が鉾で探り当てると滴の露が落ちて日本が出来た。その様子を見た第六天魔王は「この滴が国となって、仏法流布し、人倫生死を出づべき相がある」と仏国土となり魔界の障りになることを危惧して日本を滅ぼそうとした。これに対し天照大神は「我は三宝(仏・法・僧)の名も言わない、自らにも近づけないから帰り給え」と約束して退けた」という。この約束があるため外向きには三法を疎ましく思っているが、内心は深く三宝を守っている。日本の仏法は伊勢神宮によって守護されている。
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:『沙石集』のこの一節は、伊勢神宮が仏教を避けているのは嫌っているわけではないことを民衆に語る前提で記されている。
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:その後も第六天魔王譚は幸若舞『百合若大臣』や『平家物語』屋台本「剣巻」にも影響を与える。多くの御伽草子に影響を与えた『太平記』巻十六「日本朝敵事」では、天照大神の約束により怒りを鎮めた第六天魔王は、天照大神の子孫を日本の主(天皇)とし、日本の主に反乱する者は第六天魔王の一族がこれを懲らしめる事を誓い、約束の証拠として第六天魔王から貰ったのが神璽(日本中世においては八尺瓊勾玉は印であるとされていた)であるとする。
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:こうした時代の流れの中で御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』が創出された。
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;正体について
 
;正体について
 
:鎌倉時代の『保元物語』に'''盗賊'''・立烏帽子と記されたものが最も古い記述と考えられ、『弘長元年公卿勅使記』では盗賊・立烏帽子が崇敬した'''女神'''が鈴鹿姫であるとされた。『耕雲紀行』になると立烏帽子と鈴鹿姫は同一視され、坂上田村麻呂に討伐される物語となった。
 
:鎌倉時代の『保元物語』に'''盗賊'''・立烏帽子と記されたものが最も古い記述と考えられ、『弘長元年公卿勅使記』では盗賊・立烏帽子が崇敬した'''女神'''が鈴鹿姫であるとされた。『耕雲紀行』になると立烏帽子と鈴鹿姫は同一視され、坂上田村麻呂に討伐される物語となった。
 
:この鈴鹿姫は鈴鹿峠に鈴鹿明神(現在の片山神社)として祀られた神社であり、峠にある鏡岩を挟んで反対側に祀られた田村明神(田村堂)と共に東海道を通行する人々の守護神とされ、鈴鹿峠の夫婦神として信仰された。片山神社の由緒では、坂上田村麻呂が立烏帽子討伐を命じられたものの夫婦となり、二人が亡くなった後に鈴鹿峠の里の人々が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、田村麻呂を田村堂に祀ったとされる。田村明神は明治時代に片山神社へと合祀されている。片山神社は江戸時代には鈴鹿明神(鈴鹿権現)と呼ばれ、鈴鹿権現を祀る祇園祭の「鈴鹿山」では'''瀬織津姫'''と同一視されている。
 
:この鈴鹿姫は鈴鹿峠に鈴鹿明神(現在の片山神社)として祀られた神社であり、峠にある鏡岩を挟んで反対側に祀られた田村明神(田村堂)と共に東海道を通行する人々の守護神とされ、鈴鹿峠の夫婦神として信仰された。片山神社の由緒では、坂上田村麻呂が立烏帽子討伐を命じられたものの夫婦となり、二人が亡くなった後に鈴鹿峠の里の人々が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、田村麻呂を田村堂に祀ったとされる。田村明神は明治時代に片山神社へと合祀されている。片山神社は江戸時代には鈴鹿明神(鈴鹿権現)と呼ばれ、鈴鹿権現を祀る祇園祭の「鈴鹿山」では'''瀬織津姫'''と同一視されている。
 
:室町時代に入ると世阿弥作とされる謡曲『田村』で田村麻呂が鈴鹿山の悪魔(鬼神)を討伐する物語が作られ、鈴鹿山大嶽丸を討伐する古浄瑠璃などのベースが完成した。鈴鹿峠で夫婦神として信仰されていたことから、鈴鹿姫と田村麻呂の物語が融合して『鈴鹿の物語』が完成した。この『鈴鹿の物語』が『鈴鹿の草子』『田村の草子』として発展する。マテリアルVで出典にあげられている『鈴鹿の草子』は古い形態を残す古写本系統の物語「鈴鹿系」に、『田村の草子』は後世に鈴鹿系から改編された絵巻・絵本・版本など流布本系統の物語「田村系」に分類される。
 
:室町時代に入ると世阿弥作とされる謡曲『田村』で田村麻呂が鈴鹿山の悪魔(鬼神)を討伐する物語が作られ、鈴鹿山大嶽丸を討伐する古浄瑠璃などのベースが完成した。鈴鹿峠で夫婦神として信仰されていたことから、鈴鹿姫と田村麻呂の物語が融合して『鈴鹿の物語』が完成した。この『鈴鹿の物語』が『鈴鹿の草子』『田村の草子』として発展する。マテリアルVで出典にあげられている『鈴鹿の草子』は古い形態を残す古写本系統の物語「鈴鹿系」に、『田村の草子』は後世に鈴鹿系から改編された絵巻・絵本・版本など流布本系統の物語「田村系」に分類される。
:「鈴鹿系」では、日本を魔国にするために鈴鹿山へと降臨し、自分を討伐に来た田村丸将軍との戦いを経て改心、結婚して共に鬼退治をする'''第六天魔王の娘'''・立烏帽子とされる。
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:「鈴鹿系」では、日本を魔国にするために鈴鹿山へと降臨し、自分を討伐に来た田村丸将軍との戦いを経て改心、結婚して共に鬼退治をする'''第六天魔王の娘'''・立烏帽子とされる。第六天魔王の娘とされた背景として『鈴鹿の草子』『田村の草子』が創出された時代には、前述のように第六天魔王譚が巷で流布していた影響である。
 
:「田村系」では、大嶽丸を討伐するために鈴鹿山へとやって来た田村丸将軍に助力をするため、鈴鹿山へと天下だって結婚し、共に鬼退治をる'''天女'''・鈴鹿御前とされた。
 
:「田村系」では、大嶽丸を討伐するために鈴鹿山へとやって来た田村丸将軍に助力をするため、鈴鹿山へと天下だって結婚し、共に鬼退治をる'''天女'''・鈴鹿御前とされた。
 
:江戸時代に『鈴鹿の草子』『田村の草子』が東北へと持ち込まれ、東北に残る本地譚と結び付いて『田村三代記』が作られた。こちらでは第六天魔王の娘の他に'''第四天魔王の娘'''・立烏帽子とする写本もある。
 
:江戸時代に『鈴鹿の草子』『田村の草子』が東北へと持ち込まれ、東北に残る本地譚と結び付いて『田村三代記』が作られた。こちらでは第六天魔王の娘の他に'''第四天魔王の娘'''・立烏帽子とする写本もある。
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